三年後どうなってたいか。

3年後どうなっていたいか。

毎日書くと決めてはや、五日目。
三日坊主を脱した。次は三週間が目標。

このnoteを更新すると、毎日URLを送信している友人がいる。昨日その友人に
「三日坊主脱却!いえーい」と言うと、
「三年後どうなってたい?」と聞かれ、考え込んでしまった。

どうしてたいか、ではなく、
どうありたいか、でもなく、
どうなってたいか。

「どうしてたいか」というのは主に仕事を連想させる。

「どうありたいか」は仕事でどうこうというよりも、人間としてどんな人間になっていたいか、と捉えることはそれほど感覚としてズレていないだろう。

では、「どうなってたいか?」はどうだろう。
んー、これはどちらかというと、どうありたいか、の質問に近い気がする。この三つの問いの違いを検証してみよう。

「三年後どうしたい?」
「プロでサッカーがしたい。」

「三年後どうありたい?」
「プロサッカー選手でありたい。」

「三年後どうなってたい?」
「プロサッカー選手になってたい。」

……全部いけるやん!いけてもうてるやん!

いや、諦めるな。もう一回、検証してみよう。

「三年後どうしたい?」
「プロでサッカーがしたい。」

「三年後どうありたい?」
「プロのサッカー選手として、日本を代表できるような人間でありたい。」

「三年後どうなってたい?」
「プロのサッカー選手として、日本から応援されるような人になっていたい」

ふむ。これはこれで成立している。
先ほどの答えは抽象度が高過ぎて検証ができなかったが、これくらい具体的に答えると、答えに潜む差異がみえてくる。この差は質問に対する具体性の高さと客観性の二つの要素が関係しているように思う。

「プロでサッカーがしたい」
は具体性が低く、客観的視点はない。

「プロのサッカー選手として、日本を代表できるような人間でありたい。」
は、前の質問よりも具体性が高くなっているが、客観的視点はこの答えの中にも見受けられない。

「プロのサッカー選手として、日本から応援されるような人になっていたい」は具体性は二つ目の答えと同じと言ってもいいだろう。しかし、「日本」「応援される」と自分を客観的に捉える視点が追加されている。答えが出た。

「どうなっていたい?」の質問には
他の人から見てどうありたいか、というニュアンスが含まれていると言えるのだろう。

では、ここで
「どうなっていたい?」の意味が確認できてたので、僕が三年後どうなっていたいか、書きたいところなのだけれど、それはまた次のお話としよう。銭湯行かなきゃ。

小生、多忙によりこれにて失敬!

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