「発信する」ということ

「発信する」ことが苦手だ。

自分がどこにいて何をして何を感じているか、なんて誰が興味あるんだろう。

ツイッターやフェイスブック、インスタグラムなどに投稿しようとしている時に、そのエコーがいつも鳴り響く。伯楽 -hakuraku- という組織を立ち上げ、(http://hakuraku-ent.com)ここで毎週、「今週のシャララ」というものを更新するようにしたのだけれど、毎週パソコンに向かう度に手が止まってしまう。

それは一つ、自分にとって自分の存在があまりに当たり前であり、あまりに普通であるために「こんな普通の人が考える普通のことを誰が聞きたいのだろう」「何者でもない、自分の考えなど誰が聞きたいのだろう」と感じているからなのだと思う。

しかし、自分はどうやら自分が思っているほど「普通」の人間ではない、ということにここ数年で気付き始めている。そして僕の周りの人間も「普通」ではなく、どこかその人しか持たない「異常」を抱えている、ということにも。

僕は小学生の時、「腹痛や」や「ねんざした」「打撲した」という言葉を聞くと、「それってどういう感覚なの?」「何を根拠にそれが『腹痛』で『ねんざ』で、『打撲』なの」という疑問を持っていたことを覚えている。今から思うとそれは単純に僕の痛み経験が乏しかっただけなのかな、と思うところもあるけれど、あれは他人の持つ感覚の「異常性」に触れた瞬間だと思う。

自分の感覚の蓄積が「普通」という感覚を作る。人の数だけそれぞれ独自の感覚の蓄積があり、そこに共通していると本人が認識しているものを「普通」をみんな「普通」と呼んでいるように思う。しかし、その共通していると思っていることは往々にして違う、ことがある。目をみて挨拶する、相手の話を聞くときはできるだけ遮らない、ということは僕にとっての「普通」だけれど、そうでない多くの人もたくさんいる。だから何、ってないんだけれど。

「相手の話を遮るな」と先日、ある人に言われた。僕が仕事でヘマをして、叱られていた。その人と話を聞いている時に思わず僕が話し出してしまった時に言われた。その人は続けて「直人のそういうところが、、」と僕のコミュニケーションのあり方が今回の問題を帰結していたような口ぶりをされた時に、僕はそこに存在することをやめたくなった。「相手の話を遮るな」と言ったその人は僕の話を遮っている。そして「相手の話を遮るな」とコミュニケーションの黄金律を語っているようで実はそれは「俺の話を遮るな」という怒りだった、と僕は感じる。と、書きつつ、僕は日頃から相手の話を遮り相手に不快感を与えることが日常化していたのかもしれない。それだったら嫌だなあ。

って話の脱線の仕方がすごいな。

「発信」は苦手と感じている。なぜなら自分が「普通」でそんな「普通の人」の話を誰が聞きたいんや、と感じているから。しかし、自分は「普通」ではないし、他の人もみんな「異常」と感じはじめている。という話をしていたのだった。

そう。全ての人が程度の差、部位の差はあれど「異常」なのだ。で、その自分の異常な部分を発信することがとっても面白いんじゃない?と思い。自分の感じたままにタイピングしていたらこんな話になったのでした。ちょっと自分の頭の中の整理、心の整理のために気が向いたら更新していこうと思う。


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