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人体という有機体への愛が止まらない

カラダの声を聞けるようになってくると、腹の中の小さい人の声を聞けるようになってくる。

ほぼ同じことだから。

そんな鍛錬を細々とだけど10年近く続けているので、人さまのおカラダに触れているとその声は聞き取りやすいのですが、自分自身はまだまだ疎かにしがちです。

まあ、きっとそれを始める前よりはずっとキャッチしやすくなっているし、だからこそ、幼少期から溜め込んできたものが、「今やっと!」という感じでどばっと出てくる時も不定期でやってきます。

それはそういうもので、自分がガチガチな状態から、少し緩んで隙間、スペースができると、無意識に押さえ込んでいた感覚感情がそこからじんわり滲み出てきたり、時に噴出してくるもの。

この、じんわり出てくるか、噴出するかは、アプローチの仕方や段階がその人に合っているかどうかや、個人の神経系の耐性やその時の環境などなどが関係している。

SEなどの自律神経系からのトラウマアプローチの手法では、急激な変化や刺激は負荷が大きすぎるので、とても丁寧に少しずつしていくのがよいと言われているようだ。

ただし、その点に関しては、手法(自律神経系以外のものも含む)やセラピスト個人の考えによって、かなり幅広く、結構さまざまだ。

もちろん自律神経系に関する認知システムは最低限持っていたいと私は思うけれど、それが全てでもない。

丁寧に丁寧に紐解いていくことがいいこともあれば、一方から見たらNGなアプローチが、本当にその受け手にとって必要なこともある。

そこが人間の豊かさというか、奥深さというか、馥郁とした有機体、オーガニックな生き物としての魅力なんだよな、と思う。

正解はない。

とてもクリエイティブな世界。

ちなみに、アメリカではドクターと同等の地位があるオステオパシーという療法の先生も、施術で本人の自己治癒力を引き出すためのキッカケを与えるのだけど、なるべく好転反応(それは身体が死んでないということだからいいことでもある、みたいなニュアンスでも言っていた)が起きないように調整するのも仕事というようなことを言っていた。

それでも、やっぱり人はナマモノなので、恐らくどんなに腕の良い人でも結果(とくに好転反応や行きすぎた反応)をコントロールし切れるものでもない。

そこを恐れて神経症的にコントロールせねばと思う罠にハマることなく、科学的な知識と技量は備えつつも、有機体としての人間の回復力や自己治癒力とそのプロセスを信頼していく、という両方のバランスをとれるセラピストになりたいなと思った。

いや、でも、どちらかというと、後者の眼差しをとことん体験体感していけば、治癒、ヒーリングは起きるし、そちらだけでもいいと思う、ような気もする。
今はその狭間にいる私。

まだまだ、学びたいことがたくさんあるし、たぶん、ほんとは学ぶ、でもない。

思い出す。

学びをきっかけにして。

そしてクリエイティブであること。

ああ、かつて心のことからこういう世界に入っていったけれど、心とカラダは全然分ける必要がなくて、こんなに人の、心も含むカラダの、そしてそれはきっとこの地球とも言ってよくて、その美しさや豊かさに魅了されて、それを学んだり仕事(なのかな)にするようになるとは、全然思ってなかったな。

本当に美しくて奇跡的でクリエイティブで楽しい世界。

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なんかいっぱいやらなきゃいけない家のことがあった気がするんだけど、思い出したりメモを見ようとする気持ちが腹の中の小さい人にまったくないので、とりあえずボーッとしようと思ってたら、気づいたら人体愛?人間愛?セラピー愛を語っていた。。

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