シナリオは選べる2

どのシナリオを選択するかの話、続き。

たとえば心身に関わることで最近の流行りも含めていうと、西洋医療モデル、ポリヴェーガル理論、インナーファミリーシステム、反射の統合etc、色々ある。

で、そのモデルを採用した場合、その枠組みの中で物事や人体や心が説明され、理解され、実践される。
それが今までの理論では説明しにくかったことをうまく捉えて説明していると、「おおっ、これいいやん、めっちゃわかりやすいやん」となって広まる。

そして、そのモデル、世界観を理解し、エッセンスを自分のものにするには、一度とことん傾倒することも時に必要だったりする。
一度その世界観に入り込み、飲み込み飲み込まれながらも、その問題点や改善点が見えてくるものだろう。

ただ、そこで、ハマり込めばハマり込むほどに、その世界観から離脱して広やかに全体を眺めるという視点をもつことがむずかしくなるという懸念もある。

また、その理論を擁する人たち、グループが、その理論自体に関して、オープンに、問題点も話し合え、改善、探究を重ねていけるかどうかも重要だ。

改善のための研究がフラットにできない、その世界観に不都合な、異議に対して不寛容になるようなグループの性質があると、その理論の真の意味での発展はむずかしいし、下手をすると、独善的でカルティック(狂信的)な様相を帯びてきかねない。

どんなによく見える理論(または組織にも通じる)でも、フラットでオープンな研究の場があるかどうかは、自浄作用と建設的発展のためにとても重要だと思う。

翻って、個々人の話に戻ると、その理論の世界観が「一見」その中で整合性がついていて「完璧」に近いほど、そしてそこにどっぷりハマって生きているほど、そこから離れて考える、別の世界があることを認識するのは時にとても難しい。

西洋医療を全否定するつもりはまったくないが、例えば西洋医療しか知らずに「悪くなった部分は切って取る」「薬で抑える」という世界観の中で生かされてきた人に、突然、東洋医学やホリスティックな視点で「薬も手術もいりません」と語っても、話が通じなかったり、一笑に伏されたりすることがあるだろう。

何が言いたかったかというと、自分の価値観、もはや当たり前すぎてアイデンティティにもなっているようなモノの見方が、何かの拍子に、「あれ、違うのかも」と思った時、それは危機(思考優位で変化を嫌うエゴにとってはまさしく危機)と捉えることもできるが、同時に、より広く全体性にかえって行くことへのとてつもないチャンスである、ということだ。

どんなに便利で斬新で惹きつけられる理論も、やはり一つの枠組み、判断基準であって、それは使いこなすモノであり、乗っ取られ、その世界に閉じ込められてしまうと、その基準で他者や他の理論を独善的にジャッジしやすくなったり、何より、「自由」ではなくなる。

新しい世界の見方を手に入れて、既存の価値観から自由になって幸せになろうとしたはずが、気づいたら不自由さに絡め取られていた、ということは、どのジャンルでも往々にある。

だから、不自由になるまで傾倒した自分を責める必要はまったくなくて、その不自由さに気づいてそれが自分にとって心地よくないならば(「自由」を心地よくないと感じる人も多いのも事実)、いつでも、その外側には別のシナリオも存在していて、別のシナリオを選んでもいいし、そもそも今あるどのシナリオも選ばない自由もある、ということに気づいてもいい。

採用しているシナリオ、世界から離れて「全体性」にかえる視点と、時にケースバイケースで有効なシナリオを採用するという柔軟さ。

複数のシナリオの境界だけでなく、そのシナリオが通用する世界とは別の「レイヤー」にすらも、自由に、ばうんばうんバウンドしながら、行き来できること。

そうした「自由」を、選ぶこともできるということを、覚えておきたい。

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