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LGBTと性癖と性自認についての考察

note2本目から叩かれそうなところに突っ込んでいこうと思う。
それでもnoteを書くにあたって絶対に外したくない話題であり、今後も考察は発展・展開していくであろうので今現在の考えをここに書き留めておきたい。

セクシャルマイノリティについて騒がれるようになって久しいが、我々は本当に正しく「マイノリティ」というものを理解し分類し、それぞれに適切な対応を取れているのだろうか。
かくいう私も性に関してマジョリティでは無い自覚があるが、果たしてマイノリティ/マジョリティという分類は何を持って決定しているのだろうか。掘り下げていきたい。

先日久しぶりに弟の運転する車に乗った時(飲みすぎて終電失くし弟に搬送されてる道中)、酔ってたこともありこんな会話になった。
弟は2年付き合った彼女と別れたそうだ。

T「お前、別れたんだって?今相手いないの?」

弟「いない」

T「そかー兄弟誰か早めに孫の顔見せなきゃな」

弟「あの親なら自分らが幸せならそれでいいって言うっしょ」

T「そうかもなー。彼氏を連れて行っても許されそうな気はする」

弟「突然息子が娘になったりね」

T「もっと早めに娘は欲しかった!とか言いそう笑」

弟「おれさー、ぶっちゃけLGBTって性癖の一種だと思うんだよね

性癖の正しい用法についてのエンヤコラはさておき、この場合ではロリータやショタや大和撫子や筋肉質やそういった「性的対象」のひとつとしてLGBTは位置づけられるんじゃないの?って事を彼は述べたいのだと思う。

T「zZZ」

なんだか素面で深夜に兄貴を横浜まで車で迎えに来た弟と酔って助手席で話をするにはあまりにディープで恥ずかしすぎて私は寝たフリをしたわけだが、これは本当にそうなのだろうかと今になって思う。
というか、我々は真にLGBTを分類して掴めているのだろうか。

TGのゲイは存在するか(1/4)

私の疑問はここから始まる。

私のLGBTの認識は以下である。
L(lesbian):女性を恋愛対象とする女性
G(gay):男性を恋愛対象とする男性
B(bisexual):男性、女性共に恋愛対象とする男性/女性
T(transgender):肉体と精神の性別が異なる人


ここで気になるのはトランスジェンダー(TG)の人だってLGBたりえるんじゃないかってこと。

体が男性、心は女性、恋愛対象は女性って人だって少なからず存在するんじゃないかと。

憧れの先に恋愛対象となる事なんて恋愛小説しかり少女漫画しかりドラマしかり枚挙に暇がない。
優しくしてもらった人、かっこいい人に対して恋愛感情を抱くのは至って普通の事だろう。
本人ですらきっと、体が男性で心は女性だから女性を好きだという感情には並々ならぬ違和感を感じるだろうと思うが、もはや好きに性別は関係ない時代である

こういった話をすると「体が男性で心が女性だけど、恋愛対象が女性なら、それは心も実は男性なんじゃないの?」という疑問を頂きそうだ。
でも少し考えて欲しい。自分の心が男性であるか女性であるかって、恋愛対象だけで判断していいの?もっと様々なファクターを考慮してその上に立つものじゃないの?
フリルの付いた服に惹かれるだとか、
かわいくなりたいだとか、
自分の股間に違和感を感じるだとか。
私は生活の中でどっちの方がしっくりくるかなって悩みながらゆっくり決定していくものであっていいと思う。

「性自認」という考え方(2/4)

この問題に最もストレートに答えをくれるのが、性自認という考え方だ。
簡単に言うと「体は〇〇、心は〇〇」の「心は〇〇」の事だ。(コナン君じゃないよ)
自分の性別が何であるか、自分の認識しているもの。ということになる。
例えば先述のTGの場合だと、体は男性、性自認女性ということになる。

何故心という言葉を使わないかというと、どうしても心という単語には恋愛感情が含まれてしまうからだ。

性自認、と言えばそれは恋愛対象を含めた様々なファクターを考慮した上で自分の生きやすくしっくりいく性別、というニュアンスになる。

もちろんこれは生涯通して同じものである必要は全くない。
途中で自分は女性/男性だったのかも。と思えばその時自認を変えれば良いのだ。

この考え方を考慮すると、LGBTは明らかにLGBとTに別れる。
Tはただただ性自認の話をしているのだ。恋愛対象の話など一ミリも関係がなく、肉体と性自認との間に差異がある人の事を指している。
さらに言えば唯一「セクシャルマイノリティ」と言う言葉を冠するに値すると思う。(ただ、日本においてマイノリティにはあまりいい意味を含まないので、第三の性とかでもいいと思う)


一方、本人から見たLGBとは、もはや性癖だと言って差し支えないと思う。
性自認がなんであれ、そこに肉体との差異があるにせよないにせよ、好きなもの、恋愛対象たりえるものを分類した言葉で、私の弟の言うようにその他の性癖と並列して考えてよろしいのではないだろうか。

セクシャルでもマイノリティでもない。

他者による分類(3/4)

LGBを性癖だとした時、何故このような分類になったのか考える必要が出てきた。
つまり、性癖であるならば好きな対象で括られるべきなのである。
ロリータしかり、ショタしかり、細マッチョしかり、眼鏡しかり、属に性癖と呼ばれるものはそれを好きな人が何者であるかに関わらずその人が好きな"もの"で括られる。
しかしLGBに限って本人が何者であるか、で区切っている。(Bは少し曖昧であるがLは自分が女性でなければLたりえない)
男性好き、女性好き、両方好きではダメなのだろうか。

そのように言語が成長しなかった背景には、LGBの根源が他者から見た分類であるからだと私は思う。
他者から見て女性同士で付き合っているから彼女(ら)はレズである。という、本人の好みを完全に度外視した世界からそれらはやってきたのだ。
恐らくさらにその根底には世継ぎの問題であったり、恋人が取られる取られない、宗教上の問題、あるいは単にそれまでに見たことの無い異質なものであったというだけの畏怖であったりと、理由は様々に生活上でどうしても他者を分類し、自分や自分の家族から遠ざける必要があったのだと思う。

その結果、LGBという何とも滑稽な性癖分類だけが残ってしまった。

近年になってTGという新概念の登場により、他者から見たLGBと本人達から見た付き合いのあり方に捻れが出来てしまった。
他者から見れば同じゲイ(男性同士)カップルでも、
中には性自認男性で男性が好きな人同士が付き合っている場合もあれば、
片方が性自認女性で好みはストレートな場合、
あるいはカップルの片方はバイ、なんてパターンもあるかもしれない。

だから、私はいっそLGBという言葉は消滅してしまって構わないと思っている。
今は大昔と違って他者が人を分類する事にあまり意味が無くなってきていると感じる。
インターネットによりインタラクションは広くなり、関わりたくない人とは関わらずに生きてゆける。
なのであれば、他者を分類し遠ざける用語は必要ないのだ。

各々が自分の好きを表す言葉だけを持てばいいのだ。

おわりに(4/4)

全人類が肉体的性別と精神的性別と恋愛対象を分けて考える技術を身に付けたとしても、それでもやっぱり問題は起きてしまうと思う。

それは精神的な性別は目に見えないせいでもあるし、異質なものに畏怖の念を抱いてしまうせいでもあるし、信仰のせいでもあるし。

駅前でベタつくゲイカップルに怪訝な顔をするおじさんに理解を示せと叱ることは出来ない。

だがその代わり、ゲイカップルにもイチャつくな周りに理解を示せと叱る権利も無いのだ。

人の好みを理解せよというのは到底難しい事だが、一歩引いてそれがその人の好みなのだと思えれば少しは心と世界は平和になるのではないだろうか

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