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いのちとしのぎ 西成記録

どこから何から書こうか迷いながら…。

2月15日~17日まで大阪に旅に出ていて、いつか行ってみたいと思っていた西成(以下私の言う西成は釜ヶ崎・愛隣地区・ドヤ街・日本3大スラムと言われている“西成”のこと…です)に行ってきました。

人権の仕事をしていた時分に、NPO法人「抱樸(ほうぼく)」の奥田知志さんや、部落解放・人権研究所前代表理事の奥田均さんの講演を聞いてから、ずっと機会があれば行ってみたいと思っていた西成。大好きなきむらとしろうじんじんさんが野点をやっている西成。

社会に疲れ、会社に疲れ、人生もやめてしまいたくなるような鬱々した気持ちを抱えて、日常から離れたくて大阪へ向かった3日のうち2日西成を訪れて、今抱えている気持ちについて書いてみたい。


反社会的なものの原風景


その前に、「西成」という字面から私が思い出した、反社っぽいものの原風景について書いてみる。

私の原風景は福岡の路上。私は家族で遊びに行くとなったら福岡に行っていて、お洋服やキラキラしたアクセサリー、ランドセルも福岡で買ってもらった。小・中学生時代の私のお気に入りは天神コアと天神ビブレ、ミーナ天神。

福岡の路上は危険がいっぱい!拡声器を持った大人や旭日旗、軍歌を流す自動車は見てはいけない、チラシはもらってはいけない、道端に立っている僧と目を合わせてはいけない、刺青の入った人を見てはいけない―…

そりゃ今となっては、普通の親ならそう言うかもしれないし、小中学生の子どもにその理由を説明したってわかりっこないとも思う。でも私はそういう言いつけのほとんど全部に「なんで?」「どうして?」と思っていた。まぁ20年後に発達グレーと言われる私なので、人が何かを喋っていたら聞かないといけないと思っていたし、手渡されたものは貰うものだと思っていた。親がしばしば地下街に逃げ入っていく理由なんて想像もできなかった。

それから十数年経った22歳くらいの頃、中村うさぎさんの「私という病」という本を読んで、「実体験主義」という言葉にひどく感動した。うさぎさんは実体験主義者としてセックスワーカーの世界に飛び込んでルポルタージュを書いていた。うさぎさんは私のロールモデルの1人となった。

 

 実体験主義のもと、西成へ

普通とは何か、普通じゃないとは何か。社会的とは何か、反社会的とは何か。社会は誰が作るのか、包括的な社会なんてあるのか。差別や偏見はどこから来るのか、その渦中にいる人たちは実際どのように生きていて、何を思っているのか。私が持っている特権は何か、それは手放せないものか。自分がどんな環境に身を置いているのか、その中で希死念慮を抱えているというのはどういうことなのか。とにかく知りたいことがいっぱいある。
考えたってわからないので実体験主義。今回は西成に向かうことにしたのでした。

 

西成の路上で守られながら

西成での2日間の過ごし方、見たもの聞いたことについては、また別なときに書こうと思います。私は今回はなにもなく無事に行って帰ってこれました。こわいことは1つもなかったです。

ここで、1点注釈を。あくまで「私は」「今回は」無事に帰ってこられた、というだけなのは今一度ご確認ください!それから、また別な時に書くのですが、今回おそらく私はすごく守ってもらったのだと思います。西成で出会ったおっちゃんらに。西成で暮らす野良猫たちに。実際に守られていると確信するような事柄はなかったのだけれど、たくさん守られていたと思う。それで今回は無事で帰ってこれただけなのかもしれないと思っています。
危なそうな人や場所や空気は実際にありました。私も勘で避けたし、おっちゃんらや猫に守ってもらいながら過ごした、しかもたった2日のことだけで、「西成は安全」だなんて言うつもりは全くないので、誤解なきようお願いします。

帰ってきてすぐの今思っていることは、西成はええ町でした。私にとってはめちゃくちゃ引き込まれ・涙が出るほど人間臭くて・癒され・安心できる場所でした。

 いのちとしのぎの町 西成

今回の西成で私がいちばん考えたこと・考えてラクになったことを書きます。標題の通り「いのち と しのぎ」について。

私が出会った西成のおっちゃんらのことは、詳しくは書きません。上手く言葉に出来ないけれど、私なりのおっちゃんらへのリスペクトです。おっちゃんらがどんな人かについて詳細に書くのは、なんとなく野暮というか、粋じゃない気がして。見世物じゃないし。おっちゃんらの人生の上に私の文を乗っけるのは、なんか違うなと思ったので、おっちゃんら1人1人との出会いについては、ここでは割愛します。

 

西成に行く前の私は、会社のことで悩み、仕事のことで悩み、払い過ぎた税金を取り戻す申請をするかどうかで悩み、スマホを格安にするかどうか悩み…とにかくそんな感じでした。いろんなことで頭がいっぱいになって、常にエラー音が鳴ってて、鬱々として、なんだかもう死んでしまいたいと思いながら、不安時頓服を飲んで頑張っていました。

西成に行って、おっちゃんらと話ながらタバコ吸って、猫とか犬とか撫でて、光るメガネとか眺めていたら、私が頭いっぱいに悩んでいたことのほとんどは、命にもシノギにもならんことだなぁという気持ちが湧いてきたのでした。

西成のおっちゃんらは(どうしてそうなったのかは知らないけれど)、ほとんど命と金に直結する手札だけを持って、命と金しか通用しないフィールドで生きてる。ミニマリスト人生。知らんけど。(語彙力が足りないのと、腑に落ちる言葉が見つからないのと、私がこの感覚を文字にするにはもうちょっと時間がかかると思う。)

ただ、「私の悩みのほとんどは私の命にも稼ぎにも影響しないことだな」というのがハッキリわかって、そしてこれこそが、私の特権なんだろうなと思った。いのちとしのぎに全く影響しない悩みを抱えることができること・いのちとしのぎに全く影響しない悩みなのに、いのちを投げ出したくなり、稼ぐことをできなくなることができること。こんなことってあるんだろうか。あっていいわけがないよねと思った。※私はね!

 

以下、ちょっとまだ上手く言葉に出来ないけれど書き置かなきゃいけないこと。

私は西成のおっちゃんらを可哀そうだ・哀れだ・不幸だ・助けてあげたい…とか思ったわけではないし、西成のおっちゃんらと出会って、自分が恵まれていることに気付いたとか、世の中には自分より貧しい人がいるとか、生きたくても生きられない人がいるから私は生きなきゃとか思ったわけでもない(つもり)。

これは西成のおっちゃんらと私だけの話ではなく、誰かと誰かを比較すること、そして何かをジャッジすることは、私はしたくないので、そんなことはしない。
だたおっちゃんらを見て、自分を見て、思ったこと(のつもり。無自覚なバイアスもあるかもだから断言はできないけど)。

 
西成のおっちゃんらの反社会的な様も、確かに見てきた。拾ってきたもの売ってるし、そこら中が便所やし、路上に無許可で露店出すし。でもそれは、私が見たところ命を維持するための反社会性と、命を維持するための金のための反社会性だった、と思う。
生きるため。そのための金を稼ぐ。そのことで言えば道路交通法(道路を安全かつスムーズに使うためのルール)や古物商許可なんて優先順位はずっとずっと下の下で、そんなものを順守できるのは特権を持っている人だけ。そんなものを順守しようと思えること自体が、特権を持っている何よりの証拠なんじゃないか。と、私は感じました。

私が抱えている悩みを矮小化するわけでも何でもないけれど、私の悩みは大ざっぱにまとめると「いかにさらに豊かに生きるか」みたいなことで。職場の人間関係とか、節約術とか、仕事を受けるか断るかとか、さ。

こんなのあんまりだ!ハッキリ言って贅沢だった。そんなもの、命にもしのぎにも影響はないのに。生きていくことに直結しないのに。

※とは言っても「悩んでいる私そのもの」を否定したり、間違いだったと判断したりするわけではない。だってしんどいもんな。たかが2日西成に行って非日常にほだされたくらいで、私の日常の生きづらさが解消されるのだったら、医者なんて要らないのである。

 

人生において重大な出来事だった2日の体験が、今まとまるわけがないけれど(まとめ) 

まとまらない文も3200字を超えたので、強引に終わらせにかかる。

西成のおっちゃんらの、いのちとしのぎ。その日を生きながらえることと、そのための銭を稼ぐこと。そのシンプルさを前にしたら、特権を持つ人間がさらに豊かに暮らすためのルールを守ることなんて、命にも金にもならないこと。反社会的と言えばそうかもしれないけれど、社会的に生きていけないなら、社会に寄り添って生きる必要なんてないんじゃないかと思ってしまった。社会のルール、よくわかんないよ。ゴミ拾いの仕事がなくなるからとゴミを捨てなきゃならなくなるのだよ(笑)。

 西成の最寄り駅のひとつ・新今宮駅あたりを歩いていたら、星野リゾートがあったよ。万博もあるし、リゾート化(?)も進むし、ベンチは邪魔な手すり付きになっていくけれど、西成のおっちゃんらは、どこにいけばいいんだろう。


【写真キャプション】
新今宮駅近くのコインロッカー前にて。
今回はキャリーケースを持たずに、リュックと100均の袋で旅に出た。キャリーだと万一のとき走れないし、この100均の袋、マチあり・雨OK・チャック付きの万能袋なのだ!!いざ不要になったら畳めばいいし、大好き!!
何の気なしに持っていったら、西成のおっちゃんらの必須アイテムでもあるようで、持っている人がいっぱいいた。偶然にしては出来すぎていて、この袋ずっと大事にしようと思ったし、ニシナリブクロと呼ぶことにした。


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