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僕はライターになりたいんじゃない。


表現が好きだ。

文章も好きだし、映像も好きだし、絵だって好きだ。

なんで好きなんだろうか。

それは、表現とはその人の個性そのものだからだと思う。

個性には正解がない。失敗もない。

すべて含めてその人自身なのだ。

私はおそらく、今までの人生において『正解』を追い求め続けてきた。

高学歴になれば、高収入になれば・・・

きっと幸せになれるだろう。きっと今の苦しみが報われるだろう。

そう信じることで前に進んできた。

大学生活が終わろうとしている。

入る会社は決まっている。

私はそれで十分なのだろうか。


ふと思い出した言葉があった。

「もし就職活動がなかったら、もし授業がなかったとしたら、君は何がしたい?それが君にとって本当にしたいことだよ。」

とある就活エージェントのお兄さんが、グループワークに取り組む私たちに向かって投げかけた言葉だった。

「自己分析」を進める過程で、自分のしたいことを明らかにしろ、という趣旨で放たれたその言葉は、私の感情を一気に昂らせた。

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誰も知り合いがいないような海外の街で、新たな人生をはじめてみたい

それとも田舎にこもって小説でも書いてみようかな

あ、漫画、描きたいなあ、iPadで、エッセイ漫画とか。

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浮かんできた願望は、びっくりするくらい就職に関係がなかった。


投げかけたお兄さんもびっくりの回答だろう。

もちろん、世の中を変えたい、日本をよくしたい、それを軸に考える就職活動も決して嘘ではなかった。

でもこの頃、その実現方法に悩んでいたのだ。

「総理大臣になります!」

多分、人生で100回は言った。

毎回わりと本気で言っているのだけど、絶対笑われる。

平成生まれの私にとって、「世の中をよく変えることができる人」は政治家だったから、総理大臣になれば変えられるという安直な考えだが、まっすぐでかわいい夢だと思う。

しかし、その考えには陰りが見え始めていた。

東京に来て、先輩の紹介で政治家(正しくはその時は当選していないからフリーターなのか?)に会ったことがあった。

初めて会う政治家。自分でも名前を聞いたことがあるような人物だ。胸が躍らないわけがない。

直接お会いして、自分の知識のありったけをぶつけた質問をした。

しかしながら、彼の言葉は、私には届かなかった。

わからない部分はうまく交わし、自分の言いたいことは声高に言う。

そう見えたからかもしれなかった。

ある程度話し終わったあと、もう一度彼を見た。

そこにはただ初老の男性が座っていた。

政治家の中でも世の中を変えられるような人って多くないのかもな、と感じた体験だった。

SNSを活用している政治家がほとんどの時代になった。

LGBTに対して生産性がないと発言して叩かれまくっている政治家もいるし、

ネットで若い人の支持を集めていたが、北方領土でのセクハラ発言で危機的状況の政治家もいる。

SNSの発達により、見えないほうがよかった部分がどんどん露呈していく。

別に王道の政治家だって少なくない。国会中継を見ればわかる。

でも世間から注目を集めるのは、PRやマーケティングを考え抜いて政見放送を行った〇国とかなのである。

いや、マジでいま政治家になりたいの?え、マジで?


こんなん真面目にやってもほとんどの人には届かないで終わっちゃうんじゃないの、これ。

なんなら、実業家とかのほうがよっぽど影響力があるかもしれない。

そう思って実業家のSNSをのぞいてみた。

ダメだ、うさんくさい。


いや、これあれだよ、最初のほうは良かったかもしれないけど、だんだん将来の書籍化を狙っての発言になってるじゃん。

てかもう今の時点で企業のPRとか案件とか多いな!当たり前か!そのためにTwitterやってるもんな!クッソ!

一気に正解がわからなくなった。


という過程を経て、現在の夢は暫定政治家なのだが、そんなこんなで前より熱意が削られつつある。

宙ぶらりんな感じ。

その中でも変わらなかったのは、

「自分の言葉で誰かの人生にいい影響を与えたい」

という思いだった。

友人と話す中で、たまに言われるその類の言葉が、大好きだった。

変な新興宗教とかにはハマらないでほしいな、とは思いつつ、

そう言ってもらえることが自分にとって何よりも糧になった。

思い返してみると、政治家というのも、自分の声を多くの人に届けるためにほしいと思った肩書なのであって、

その本来の目的が達成できないのであれば別にいらないな、と思った。

だったらまずは、まっすぐ自分の伝えたいことを伝えていく活動を続けるべきだろう。

そう思ってライターになることにした。(早)


自分の書く文章に自信があるわけではないし、

”肩書をもらって書く活動”というのは、いい意味で自分に緊張感をもたらしてくれる。

そう信じてライターになってみた。

まずは、もともとゼミで学んでいた延長線上で、ブロックチェーンの記事を南アフリカで書いた。https://capechameleon.co.za/blockchain-can-reinvent-how-south-africans-use-money/


そのさらに延長線上で、仮想通貨メディアで記事も書いてみた。

でも、そこで、数字を気にしたり、毎日出す記事数のノルマをこなす日々は、自分に違和感を覚えさせた。

そこまで来てようやく気付いたのだ。

自分は、多くの人に届く記事に携わることに満足するわけではなく、

たとえ文章が下手でも、たとえ数人の目にしか留まらなかったとしても、

自分が本当に伝えたいことだけを伝えられる人間でいたいということに。

全員にいいと言われなくたって、

たった一人に「君の文章が好きだ」と言ってもらえるだけで、十分だ。

だからこそ私は多くの人に伝えようとはしない。

これを読んでいるあなたにさえ届けばいい。

だってこれは表現だから。

正解も失敗もない。ただここに私という人間のウザさとか、そういうものだけがある。

みんなに好きになってもらおうとすると、とたんに言葉は薄っぺらくなると思う。

読む人に賛同を求める文章は、読むだけで疲れる。

それは表現ではなく、マーケティングをもとに作られた自己顕示欲だ。

そういうのにあたりすぎて、心が少し疲れた。

どうかそれがない場所が、表現が、あり続けますように。

他人の自己顕示に疲れたときは、本を読むことをおすすめします。

本というのは、作者の不満とか、分析とか、伝えたいことがいっぱい詰まっていておもしろい。

まさに純粋な表現であることが多い。

次回は、そう感じさせてくれた川上未映子さんの「夏物語」の感想を述べてみようかな。

みなさんも本を片手にいい夏をお過ごしください。
















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