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先生

小学一年生の時の担任だったカネコ先生。すごく背が高くて、腰まである長い髪をきゅっと結っていて、弓道選手のような風貌の先生だった。当時NHKの「にほんごであそぼ」で放送されていた金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」が大好きだった私は、カネコ先生は金子みすずの親戚なんだろうなと感じていた。図書館で初めて金子みすゞの詩集を借りた時、表紙に載っていた金子みすゞの顔がどことなく先生に似ているような気がしてすごく嬉しかったことを覚えている。私にひらがなや国語、生活、給食、音楽、図工、体育、全ての初めての教えてくれた大好きな先生だった。そういえば私に縄跳び女王の称号を与えてくれたのもカネコ先生だ。同じクラスの子に「可愛くないから一緒の遊びには入れられない」と言われたことがあった。家に帰るなり「もう学校には行けない」と泣きじゃくり母を困らせた。その日の夜先生は私に電話をくれた。何を言われたかはよく覚えてないけれど、次の日から私はすんなりと学校に行くことができた。私はあの日から、小学校のみんなと同じ「可愛い」にはなりたくないと思い始めたんだと思う。小学一年生の私にとって先生はすごくすごく大きく見えていて体感的には自分の4倍ぐらい背丈のある感じだったけれど、実際はどのぐらいの身長だったのだろう。また会いたいな。

小学二年生。すごくパワフルで生徒よりも元気な先生だった。休み時間にはよく男子とゴリラのノリで盛り上がっていたような気がする。私がクラスメイトに嫌なことをされたと先生に相談すると、その日のお昼休みに私とその友達と先生の3人で花壇にお花を植えにいこうと言ってくれた。スコップで土をいじりながらお互いの気持ちを話して、お花を植えながら仲直りをした。先生は昼休みはいつも教室にいて、室内で昼休みを過ごす派の大人しめの生徒たちともよく遊んでくれた。当時、しずくちゃんにハマっていた私はしずくちゃんに出てくるキャラクターを粘土で再現するということをよくやっていた。先生は毎回私の粘土作品を褒めちぎってくれて、作品をロッカーの上に飾ってもいいよとも言ってくれたな。ひどい台風の日にはリポーターごっこをやるのがお決まりで、先生はいつも台風被害にあった現地人の役を熱演してくれていた。そしてなっちゃんのお別れ会の時には誰よりも泣いていた。先生元気かな。

小学三年生。定年退職直前のベテラン先生だった。みんなにバラバラ先生と呼ばれてもノリ良く突っ込んでくれていたとても優しい先生。先生の眼鏡にはメガネチェーンがついていたため、私は勝手におばあちゃんと同級生ぐらいかな?と思っていたが今思うとそんなことはあり得ない。メガネチェーンに対する偏見が過ぎただけだ。ちなみに先生は永遠の18歳を主張していた。先生は国語の時間に私が作った短歌を褒めてくれて優秀作品にまで選んでくれた。昼休みには当時芦田愛菜ちゃんに憧れていた私に付き合って、福くんの役で一緒にまるまるもりもりのダンスを踊ってくれた。二学期に横浜から転校して来た金髪のcity boyにもビシバシ指導をしていたのが面白かった。

小学校の記憶はここまで!4年生以降は思い出そうとすると頭がキーンとなる。いまだに、冷静に振り返ることができないな。まだまだ時間が必要。

中学1年生と2年生。厳しく優しい先生だった。初めて生徒会役員選挙に落選した時「あなたが否定されているということじゃないの」と言ってくれた。先生にもらった言葉の中で1番救われた言葉。ありがとう。合唱コンクールは2年連続金賞だった。音楽の先生のクラスだから贔屓だろ!と言われて、他クラスの前で気まずそうな顔をする先生を見るのが好きだった。

中学三年生。朝の会から「何でそんな声ちっせえんだよ!おい声出していけよ!ほら声!」というタイプの脳筋エナジーくん先生だった。割愛。


塾のバイトを始めてから子供達に「先生〜」と呼ばれるたびに、私はこの子たちの先生なのだと自覚する。私が先生だなんて可笑しいとも思うし、責任が大きすぎるとも思うし、難しいなとも思う。私の担任の先生みたいに、少しでもこの子たちの中に何かを落とせたら、混ぜこめたら、添えられたら、と思う。見つけてあげられたら、頷いてあげたら、引き抜けたら、濃くできたら、と思う。だけど、先生だけど先生じゃない、変な年上の人だと思われたい。こんな変な人もいるからね、世界は広いからね、自分で作るご飯は美味しいよ、沢山寝てね、本は全部読み終えなくてもいいよ、猫は可愛いよ、大事なのは声の大きさじゃないよ、なんてことを教えたい。

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