震災から10年。

私の住む宮城県は最近地震が多い。東日本大震災からちょうど10年ということもあって、こういうことが続くともっと悪いことが起こるんじゃないかな、と不安になる。

2011年3月11日。

あの時、私は小学校6年生だった。卒業式を直前に控えていて、その日も卒業式の練習があった。

授業が終わり、友達と下校時。学校の敷地を出て信号を渡った直後だった。今まで感じたことのない、永遠と続く激しい縦揺れ。一体何が。後ろを振り返れば、小学校の数年間を過ごした木造校舎が倒壊せんばかりに音を立てながら揺さぶられている。状況を理解できず、呆然。揺れが収まって静かになっても腰を抜かして泣く他なかった。

あっという間に日が暮れていく。

無事に家族全員と合流。電気も水道も使えない真っ暗な祖父母の邸宅の中で祖父母、両親、弟たちとろうそくを囲み、肩を寄せ合う。その後は一旦自宅に戻り、いつでも避難できるように父が仕事で使っているワゴン車の中で夜を明かした。

車の中、隣で父が「今から沢山犠牲者が出る」と重々しい口調で呟く。TVも繋がらない、情報も入ってこない中、子供の私でも「沿岸部で何かとんでもないことが起こっているんだ」と得体の知れない不気味な予感を感じることができた。

翌12日。

石巻、気仙沼、塩釜の沿岸部の街が津波に飲まれたことを知る。ニュースの映像で目に飛び込んできたのは、真っ黒な波に破壊され尽くし、物が散乱している、かつて人が住んでいたであろう場所だった。

日常が一瞬で崩壊したことを思い知る。

さらに間を置かず、東京電力の原子力発電所で事故が起きた。

たまたま内陸部に住んでいた。津波を免れたから家族全員が無事でいられた。でも、もしニュースで見た家族を失ったあの人が自分だったら。津波が押し寄せる映像で見た、黒い波に飲み込まれていく建物の1階にいたのが自分の父や母、弟たちだったら。

そう考えると、日常とは当たり前とは何だろうか、と考えさせられるし、この「私たちが当たり前だと思っている」日々はかけがえのないものなのだと感じずにはいられない。

今私にできる事は震災の記憶を忘れず語り継いでいくこと。そして、いつ「その時」が来ても自分の命を守れるように、どう動くかを決定しておくことではないだろうか。

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