期待をしない ではなくて


1.矢印の先

対人関係において、「人に対して期待をしないようにする」という自衛の仕方がある。

正しいと思う。

ただ、人と付き合っていく上で完全に期待をしないことは信頼しないことと等しいのではないか。


誰かに無意識に向けてしまった期待に応えてもらえなかったとき、今後は期待しないようにしようと思う。最初はプレゼントの1つや2つだったかもしれない。相手がノリで言ったことを実行してもらえなかったことへの不満からだったかもしれない。

「期待しないようにしてるんだよね〜」と言うと「それって寂しくない?」などと言ってくる人がいるが、それは期待の押し付け合いと超え合いを繰り返し、少しでも下回られるとすぐに不機嫌になる人の誕生日をすぐバースデープレートで祝う人間が言ってるだけなので気にしないでいいと思う。


私が思うのは、期待しないことが寂しいということよりも、それがいつしか信じないことに繋がっていくということだ。寂しいの前に(信じられなくなって)がついているのかもしれないが、そんな行間を感じたことはないので配慮は割愛する。


期待の厄介なところは、自分でも無意識にしてしまっているところだ。

明日楽しみだな〜いつ行けるんだろうな〜という純粋なわくわくも、応えてもらえなかったときだけ、どす黒い期待の怨念として浮かび上がってくる。それなのに、応えてもらえたときはそこまで主張してこない。あの日楽しみにしてたことがついに!という気持ちよりも、その瞬間の純粋な楽しさのほうが強く浮き出るからだ。

期待しない!と思うようにすればするほど、相手の発言や行動は自分の中にぽやんと生まれる期待の赤ちゃんみたいな概念を潰すきっかけになる。心のわずかな部分だとしても、殺すのは疲れる。

だから、期待しないことは難しいししんどい。毎回毎回応えられる人なんてそうそういないのに。



2.言い換えてみる

でも、求めすぎないことなら出来ると思う。

期待した光景を実際に見せる(もしくは超える)ことでしか応えられない「期待」は、達成するのには範囲が狭すぎる。フォローや潰しが割と効かない。プレゼントへの不満はプレゼントでしか解消できない気がする。

その点、求めるということ(言葉)は範囲が広い。「何をもらえるんだろう」という期待よりも「喜ばせてほしい」とざっくり求めるほうが良いみたいなこと。正確な概念とは違うのかもしれないけど、私はこんなふうに捉えてる。

たとえ思ったようなものをもらえなくっても、普段の日常を思えば満たされるかも。求めすぎていたことに気付いて、与えられていたものを見つけられるかも。

プレゼントは苦手なのかもしれないけど、いつも私の話を最後まで聞いてくれる とか。全然そうじゃないこともあると思うけど、そんなやつは普通に信じなくて良いから距離を置いていいのだと思う。無理に与えてもらっていると自分を騙すことは、信頼関係を偽ったちがう何かだから。



3.私と期待

これらは友達と期待することについて話していて書こうと思ったのだけれど、そもそもは自分が誕生日を祝われることが苦手だと気付いたことがはじまりだった。

中学校のときのクラスでは誕生日を盛大に祝うことがまあまあ当たり前になっていて、誕生日の子がいるとみんなで少し早く来て黒板にメッセージを書いたり、お菓子を組み立ててタワーを作ったりするのが流行っていた。


その年はなんだか自分の誕生日が来るのが怖かった。

テストも近かったし、みんな他の人より適当にやるだろうな。そもそも、2月生まれの私の番が来る頃にはみんな飽きてるかも。などと考えていたが、結局黒板にはメッセージが書かれていた。

嬉しさよりも安心が勝った。当時書いてくれた人、ごめんなさい。

安心したのも束の間、自分がどんな顔をしているか急に分からなくなった。それまで祝われた子はみんなとびきりの笑顔で何度もありがとうを連呼していた。同じようにやればいいだけなのに、突然表情筋が固まっていた気がして焦った。みんなが期待するリアクションをとれていないように思えて、もう帰りたかった。そのくせ一日中誰かと会うとお祝いされることをどこか心待ちにしていた。意味わからん。


多分その辺りから祝われることが途端に苦手になった。祝うことは好きだが、お返しが来るのが怖いから程々にしようと思った。高校からは、そのような文化も祝うことが好きな友達もいなかったためメッセージを送り合うだけですぎていく日々が心地よかった。

今では祝うことも凄く苦手である。相手に期待されているような気がして、それに応えられることを出来ているか不安になる…。気持ちが大事とは分かっているのだけど…。



4.長くなっちゃったね

〇〇行きたいな〜 プレゼント楽しみだな〜 などと言って相手の行動を誘発することは、自分が「こうしたい」という気持ちを伝えるのには向いてない気がする。乱雑な気もしちゃう。お金も時間もかかることを、仲がよいから/自分のことが好きなはずだからしてくれるよね というのは雑でありもはや搾取なのではないかとさえ思う。効果があるのは煽ればやる気が出てくる相手だけだ。


理想を押し付けるよりも先に、相手に無理をさせない環境を作る方が先なのかも。そしたら期待してなかったことも返ってくるのかも。でもそんなふうに接したいと思える人とはなかなか出会えなさそうだし、返してくれる人も少なそう。だからTwitterには我慢ばっかりしなきゃいけない立場の人が生まれるんだもんな。出会いは運ゲー、世知辛し。

あれこれ書いたけど、もちろん大事にしたいと思う人に対してだけでいいと思う、それ以外は出来るだけ気楽に考えていけるように頑張りたい(自戒)。


あとは求めたり与えられたりのほかに「奪う」ということもある。

深く知っていけばいくほど、無意識に奪ってしまうこともあると思う。奪われることも。それをしない関係がどれだけ素敵か。たくさん与えられる人になるよりも前に、何も奪わずにいられる人になることが先なのか。
友達に自分のことをどう思うか聞かれて「こういうとこがあると思う」と伝えたとき、言い方は適切だっただろうか。棘がないと伝わらないこともあるかもしれないけど、本当にそれ以外で伝えられなかったのかな。とか今更考えたりする。何言ってもきっと伝わらないと私が投げ出してしまったのはよくなかったと反省する。


頭の中を整理するために書いてみたけど想像以上に長くなったから気休め程度に目次をつけてみた。果たして意味があるのか。さっさと書いて寝ようと思っていたのに気付けば1時間以上も打ち込んでいたらしい…ひえっ!

うだうだ考えるよりも前に生活リズム整えたほうがいいすよね。今日は花火見に行きました そのこともまた今度書こう おやすみなさい。

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