酔いを覚ますは琥珀色 【2000字のドラマ】
帰宅したかなみは、冷蔵庫から水を取り出した。ボトルのキャップを開け、一瞬だけ迷う。グラスに注いだ方が良いのは分かっている。けれど—
まあいいや。
疲れで頭も身体も働かない。投げやりな気持ちを身体の奥に押し流すように、口をつけて直接飲んだ。
金曜日。時刻は夜の11時を回っている。残業続きの1週間がやっと終わった。入社3年目の若手とはいえ、かなみの身体はさすがに悲鳴をあげている。
着替える気力も湧かず、スーツの上着を放り投げ、床に寝そべる。
1Kの狭い部屋に、上着が着地する音だけがやけに大きく響いた。
スカートのポケットから携帯をとり出して見ると、LINEのメッセージを数件受信していた。ざっと送り主の名前を確認して、ため息をつく。
来るわけない……か。
待ち続けているあの人からの連絡。2ヶ月前まで、金曜日の夜には必ずこの部屋に来ていたあの人。
やめたやめた、と口に出して、暗い気持ちをどこかへ押しやりながら起き上がった。
キッチンでカップメン用のお湯を沸かしながらLINEのメッセージを読んだ。友人からの数件のメッセージに混じって、田舎の母からも1通。
—お仕事お疲れさまです。少し電話できますか?—
受信した時刻は午後7時23分。
『今仕事から帰ってきたところ。この後は空いてるよ』
送信してすぐ、はっとした。自分にとっては、まだ11時。でも、母にとっては立派な深夜だ。睡眠の邪魔をしていないと良いな、と思っていると、すぐに母から電話がかかってきた。
「元気にしてる?」
母の声は少し掠れている。布団に入って、ウトウトしていたところなのかもしれない。かなみの心に申し訳なさが募る。
「忙しいけど元気だよ。ごめんね、こんな時間に」
「いつも帰りはこれくらい?」
「ううん、今日は特別。帰る直前に、仕事振られちゃってさ」
なるべく無駄な心配をかけたくない。適当な嘘だが、どうせ母には分かるまい。
「気をつけてね。東京は物騒だから」
「あのさ、東京の金曜日の夜って、どこも昼間みたいに明るいんだよ。一人で歩いてる女の子、いっぱいいるんだから」
へえ、そうなの、と母が言う。目を丸くしている様子が目に浮かび、自然と笑みが溢れた。
どこも昼間みたいに明るい東京の金曜日の夜。一人でいるこの小さな部屋はとても暗く感じられる。そんな中で聞く母の声は、かなみの心を小さく照らした。
「それで、突然どうしたの?」
「ああ、大したことじゃないんだけどね、麦茶がなくなる頃かなと思って。また送ろうか?」
母の言葉に、心がチクリと痛む。
足元に目をやる。冷蔵庫の横に置かれた段ボール。その中に、袋詰めされた麦茶のティーパックが10袋ほど重なっていた。
『丸粒麦茶』と書かれたパッケージ。麦の粒が砕かれずにゴロゴロと入っているティーパックだ。それを煮出して作る麦茶が、かなみは子供の頃から好きだった。東京のスーパーではなかなかお目にかかれない。
あの人と恋人だった頃、実家から送られてきたそれを、丁寧に煮出しているかなみを見て彼が言った。
「一人暮らしで麦茶を沸かしてる女の子って、家庭的で良いよな」
そのセリフに舞い上がり、母に多めに送って欲しい、と頼んだのだった。
金曜日の夜には、部屋に来る彼によくその麦茶を出した。彼が飲む麦茶は、深く澄んだ色をしていて、浮かぶ氷は琥珀のように美しかった。彼は美味しそうに、いつもそれを飲み干した。
彼と別れた今、自分ひとりのために麦茶を沸かす気にはなれず、母の優しさはキッチンの隅で埃をかぶっている。
「あー…ありがと。でもまだ少し残ってるから。無くなったら、また連絡する」
気まずさに耐えかねて、適当な所で電話を切り上げた。母は最後にこう言った。
「くれぐれも、身体を大切にね」
母の声は、まるで温度を伴っているかのように暖かかった。
電話を切った直後、携帯がメッセージを受信した。画面を見たかなみは、思わず携帯を落としそうになる。送り主は、2ヶ月前に別れた恋人、ヒロヤからだった。
—今から行っていい?—
浮気を重ね、何度もかなみを泣かせた男。会ってはいけないと、頭の中で誰かが激しく警報を鳴らす。
きっとただの気まぐれだ。分かっている。痛いほどに。なのに今、なぜ自分は鏡に向かい、メイクを直しているのだろうか。メイクブラシを持つ手は、情けないほどに震えている。
別れた後、ヒロヤにはすぐに別の恋人ができたと風の噂で聞いた。
その話はかなみを打ちのめした。自分さえ寛容でいたら、ヒロヤはまだ自分の隣にいたかもしれないのに—。そんな風に自分を責めて、涙と共に彼への歪んだ恋心を募らせていたかなみにとって、ヒロヤからの誘惑に逆らうことなど、無理な話だった。
✳︎
1時間後、ヒロヤは本当に部屋に来た。随分酔っていて、かなり上機嫌だ。
冷蔵庫から飲み物を出そうとしていたら、すぐに抱きすくめられた。
「会いたかったよ、かなみ」
どの口が言うのだ、と彼の腕の中で思うのに、頭の奥が痺れて、かなみの身体は彼に抵抗できない。キッチンの硬い床が背中に迫る。その感触は、冷たくて甘い。
ヒロヤの携帯が鳴った。出なくて良いの、と聞くと、キスで唇を塞がれた。
こんな時間だ。恋人からに違いない。
苦しくて、切なくて、でも嬉しくて、涙が浮かんだ時、足元でガサっと大きな音がした。
母の送ってくれた段ボールに、ヒロヤの足が当たって倒れたのだ。袋詰めされた麦茶が出てきて散乱する。
チッ。
かなみに覆い被さったまま、ヒロヤが舌打ちをして、段ボールを蹴飛ばした。
ひしゃげた箱を見て、頭の中に突然声が響く。
「身体を大切にね」
さっきの母の声だった。
涙が溢れる。
こんな相手に都合よく扱われるために生まれたわけじゃない。
かなみは渾身の力をこめて、ヒロヤの身体を押しのけた。
「帰って」
その一言は、涙でかき消されてうまく発音出来なかった。
✳︎
これで良かったんだ。
かなみはヒロヤの出て行ったドアを見ながら思う。涙はまだ止まらない。でも後悔はなかった。
ノロノロと起き上がり、麦茶の袋を胸に抱える。ほんのりと良い香りがして、心なしか暖かった。
麦茶を沸かそう。自分のために。
かなみは涙を拭って、お湯を沸かし始めた。
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