風が吹かなかったから


ホテルの部屋から望む夜景は、天体を散りばめた宇宙のように、遠く美しく滲んでいた。その夜景を背に、あなたは窓際の椅子に座っている。膝の上で肘をつき、手を組んで、祈るような姿勢で床を見つめるあなたは、ひどく疲れているように見えた。

少し伸びた前髪が、あなたの目の上に影を作っていた。その影のせいで、あなたの瞳はうかがい知れないけれど、そのまぶたが悩ましげに歪み、瞳がいつもより乾いていることは分かった。あなたはいつもそうだった。悲しいことがあるときほど、瞬きを忘れて、瞳を乾かしてしまう。こちらを見ない二つの瞳。それでも分かるようになってしまった、あなたの気持ち。


あなたの前髪が、あなたの形の良い額の上に作る影を、何度も見てきた。影に魅了されるなんて可笑しいかもしれないけれど、その小さな仄暗い空間は、光が遮られた場所であるにもかかわらず、何度でも私の心を照らし、浮かび上がらせた。いつしか私は、その小さな影に溶け込んで、ずっとあなたの瞳だけを見つめていたいとすら願うようになっていた。瞳だけではない。直線的なまつ毛も、笑った時、下瞼に押し上げられて現れる目尻の皺も、嘘をついた時に赤く充血する目の縁も。あなたの感情を万華鏡のように映し出すあなたの目を、いつも一番近くで見ていたかった。昔、あなたに言ったことがある。あなたの気持ちを探ることに関しては、私は誰よりも優秀な探偵になれるわ、と。そんなセリフが纏う無邪気さとは裏腹に、私があなたを見つめる視線は、いつも真剣そのもので、そのことが、ときに私をひどく疲弊させた。


俯いたあなたの視線の先には、シンプルなデザインの絨毯があった。ベースとなる深い臙脂色の生地の上に、白とベージュの細い線が踊る。その線が描く不規則な模様を、私は目で追っていた。この絨毯の上で、せめて私たちの視線だけでも同じ方向へ進み、そしてまた、交わり合うことができたら。そう思って、線が描く軌跡を、何度も何度も視線でなぞる。その行為に意味が無いことなど分かってはいても、私はそうやってやり過ごすほか、どうやってこの時間と空間の中に存在したら良いのかわからなかった。願わくば、こうやって永遠に絨毯の模様を見つめたまま、この部屋の中にあなたと存在していたい。けれど、そんな思いを口に出すことはない。私の口からは何一つと言っていいほど言葉が出てこない。まるで、さえずることをすっかり忘れてしまった鳥のように、私は押し黙ったまま、呆然と決定的な瞬間を待っている。私は、そんな自分の狡さが、たまらなく嫌だ。あなたと私、二人の間には、うるさいほどの静寂が居座っていた。


長い沈黙の後、唐突に訪れた音は、私が待ち侘びたものであり、また、私が一番恐れていたものでもあった。
「どうしても、行くのか」
この期に及んで、そんなことを言うあなたの狡さが波を呼ぶ。愛おしさの波だ。音もなく押し寄せるその波にさらわれて、全てを失ってしまいたい衝動に駆られた。さえずることを思い出して、声の限りに必死に鳴いて、素直な思いを伝えたいけれど。でも——。


あなたのその静かな声は、私の鼓膜を突き破って、脳内に大きく響いて、傷を残した。まるで殴られたように感じる。あなたの胸元で赤いネクタイが揺れて、あなたの後ろの宇宙が揺らいだ。あなたの顔がこちらに向けられる気配を感じた瞬間、私は焦りにも似た気持ちで顔を背けた。あなたの瞳の中に、私の姿をほんの一部でも映して欲しくなかった。私は急いで、ソファの上のハンドバッグと、黒いファーの付いたコートを手にとった。あなたのその目を見てしまったら、私は、いけないと知りつつ、きっと閉じ込められてしまう。あなたのその、乾いた瞳の中に。

赤いエナメルの小ぶりのハンドバッグが、なぜかその時はとても重たく感じられた。敷き詰められた上等な絨毯のおかけで、私は足音をほとんど立てずに歩くことができた。それでも私は、あなたの耳の奥に、私の足音が残り、それが後にあなたの心を掻き乱すようなことが決してないようにと、注意深く、静かにドアに向かった。雲の上を歩くような、現実感のない歩みの中、振り返りたい衝動と、早くこの部屋から出なくてはという思いが交錯して、足が思うように動かない。まるで白とベージュの模様が、私の靴の細いヒールに絡み付いているようだ。夢の中で、走りたいのに足が進まない感覚と似ている。これが夢であれば良いのに、と思った刹那、これまでの、夢のようだった日々が思い起こされた。それらは記憶の中で次々に煌めいては、冷たい川底にこぼれ落ちていくようだった。これ以上こぼれないようにと手を固く握りしめてはみたが、こんなに美しい瞬間が、私の人生の中に散りばめられていただなんて、今となっては信じられなかった。全てはやっぱり夢だったのかもしれない。


フワフワと心許ない足を必死に動かして、やっとのことで部屋のドアまで辿り着いたとき、私は長い旅行を終えたときのように、疲れ切っていた。あるいは本当に、長い旅をしていたのかもしれない。あなたの前髪が額に作り出す影の中を、私はずっと彷徨っていたのだ。光の遮られた場所から、光りかがやく未来を探して。


部屋の出入り口であるドアには、アンティーク調の金色の装飾が施されたノブがついていた。いくつもの波が押し寄せているような細かい彫刻が美しくて、私は、この瞬間すら目に焼き付けようと必死だった。私はまた旅に出なくてはならない。それならば、あなたにまつわる思い出をできるだけたくさん持って行きたい。ドアノブに手をかけようとした時、自分の手が抵抗したことに驚いた。まるで磁石のS極とN極が反発しあうように、私の手は、ドアノブを握ることを強く拒んだ。
けれども、その反発も長くは続かなかった。次にドアノブを握ろうとした時、私の手は、いとも簡単にそれに触れることができた。終わってしまう。一瞬のうちに、良いのかと自分に問いかけ、そして決意する。目を瞑り、短く息を吐き、その呼吸の揺れに合わせて、ドアノブにかけた手に力を入れた。一息にドアを通り抜け、ホテルの廊下に出た。

目を開けるとそこには、廊下と、両サイドの壁に並ぶいくつものドアがあった。床には、部屋のものとはデザインの違う、けれどもやはり上等な絨毯が敷かれていた。その景色がどこまでも続いているかのような錯覚を覚え、軽い目眩がした。
確か、今日は全館満室だと、フロントの男性が言っていた。白い歯が眩しくて、清潔感に包まれたホテルマンだった。眩しすぎて直視出来ないその人はこう言った。
「当ホテルでのご滞在が、素敵な時間になりますように」
たぶん彼は、輝くような笑顔を浮かべていたのだと思う。


それにしても、この全てのドアの向こうに、人がいるだなんて信じられない。廊下は静けさに満ちていた。これ以上静かな場所を、後にも先にも私は知ることはないだろう。外に出たい、と強く思った。一人になりたいと願っているくせに、人の目がないと、私は今すぐにでも崩れ落ちて、形を失ってしまいそうだった。天を仰ぐ。昔からの、私の癖。涙が溢れないように、などという陳腐な理由からではない。ただ単に、空を仰ぎ見て、大きく息を吸って、下腹に力を入れては、過去をその都度捨ててきた。見上げたそこに、空はもちろんない。天井に、オレンジ色の間接照明がぼんやりと灯り、あとは静寂があるだけだ。さっきあなたと部屋で感じていた静寂とは違い、無機質な、とても静かな静寂だった。

背後で、部屋のドアが閉まる音がする。ああ、まだ閉まっていなかったのか。ああ、もう閉まってしまったのか。あなたと私を隔てる一枚のドア。あなたが私を追いかけてこないことは、私が一番よく知っている。おそらくもう二度とつながることのない、お互いの空間。ドアの音はまるで、スタートの合図のように聞こえた。

せめて風でも吹いてくれたら良いのに。ふとそんなことを思いながら、私は廊下を進んだ。進むのは苦労した。せめて風が吹いたなら、その風に身を任せるようにして歩き出すことができたかもしれない。今の私は、進むべき方向すらわからない。この牢獄のような廊下を、一生さまよい歩くのだ。必死に上をむいて、後ろ髪をひかれながら。こうして始まる、私の新しい人生。彼と、一生別れるための一歩を踏み出して。


あとがき
男女の別れ、というのは、切り出す方も、切り出される方も辛いものです。しかしながら、恋人同士の「別れ方」というものには、その二人が築いてきた関係性が色濃く反映されるような気がして、小説や映画では、別れのシーンについ心を奪われてしまいます。辛いはずなのに、あとから振り返ると、美しい。そんな別れのシーンを書いてみたいと思ってできた作品です。読んでくださり、ありがとうございました。

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