「感情」と「言葉」について思うことを書きます。

 お久しぶりです。うっでぃです。

 結局noteを始めても別に更新頻度は上がらなかったので、自分は言うほど文章書きたいわけじゃないんだろうな、と認識を改めました。


 今日は前々から考えていたことを書こうと思います。書こうと思うことが前々から考えていたことなのはいつものことですが。


「感情を言語化すること」と「言語が感情化すること」

 Twitterをやっているとしょっちゅう目にするやつなのですが、「夫に対する愚痴」ってあるじゃないですか。「愚痴」で済んだらまぁかわいい方というか、SNS向けのアウトプットゆえか元々当たりが強いのかは分かりませんが、その多くはむしろ「誹謗」とすら呼べるような厳しい言葉で綴られていますよね。

 ああいうのを見るたびにいつも考えていたことなのですが、その愚痴、本当にそう思ってるんですかね……。

 というのも、人間が思考するためには言語という媒介が必要です。誰しも感じたことを自分の中で噛み砕くために言葉に落とし込もうとし、それを発言するわけじゃないですか。この「噛み砕くために言葉に落とし込」む過程で、絶対に「言語化されたもの」と「実際に感じたもの」とのズレが生じるんですよね。どんな達人であってもそのズレを0に限りなく近付けることは出来ても0には出来ない。それは普遍的な事実でしょう。

 であればこそ、言葉にしたその感情は、あなたの思考は、本当にあなたの感じたことを捻じ曲げることなくアウトプットされたものですか?ということを、常に慎重に考えていかなければならないと思うんですよね。

 「少しモヤッとした」程度の気持ちを「ホントムカつく!○ね!」と表現したりとか、「自分の手が空いていないことに気づいて、手伝ってほしかった」という要望が「空気読めない、気が利かない、ちょっとしたことだけやって手伝った気になってる」など一方的な不満ばかりをあげつらうものに変わったりとか。

 そういう風に、言語化された感情が実際の感情よりも誇張されたり虚飾されたりすると、実際の感情もそっちに引っ張られてしまうということは、往々にしてあると思います。それってつまり、「言葉に感情を乗っ取られている」ということなんですよね。

 こうなってしまっては、SNSで愚痴っている限り、より多くの人に共感される強くて過激な考え方しか出来ません。よくよく立ち戻ってみれば別にそれほど悪くはない毎日なのに、ちょっとした不満や苛立ちを増幅させては近しい人のことをどんどん嫌いになっていく日々です。

 とても悲しいことではありますが、現実として全国・全世界の至る所で起きていることだと思います。


 まぁ、これはむしろSNSの普及に伴ってとかいうわけでもなく、井戸端会議に代表されるように「他人の悪口で連帯する」なんていうのは昔からあるコミュニケーションの一つなんでしょう。とはいえ、はっきりと誰かを傷つけるような言葉を吐くときは「それを口にするだけの憎しみを持ち合わせているのか」について一歩止まって考えるべきなんじゃないかと思いますね。「一度口にした言葉は飲み込めない」というのは、他者にどう捉えられても取り返しがつかないということ以上に、自分の中にその感情があるということを認めてしまう、「そういうことになってしまう」、ということでもあります。


 悪口を言わないようにすることは、自分の身を守ることでありながら、自分の心を守ることでもあると、僕は思います。

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