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気持ちを汲み取れる人でありたい


映画を観終えてからもう少しで2ヶ月

池袋の映画館から横浜まで各駅停車で
帰る道中でFilmarksに書き残した文字は紛れもなく
観了後の素直な感想だ

その後も年末の忙しい仕事中も
束の間の休日も何故かずっーと後の映画のことが
頭の片隅に残っていた

このもどかしさを解消すべく
原作"女のいない男たち"(村上春樹)を読んだり
試写会の動画を見たり予告を見返したり
濱口監督の違う映画を観たり...

なんとなく答えがみえてきたかと思えば
自分の語彙力のなさにうまくまとめることが出来ず
ここまで書いてなんとなく答えがみ..(文頭に戻る)

結果
今の自分にはこの2時間59分の映画を
まとめる事ができないと悟ったのでテーマを
絞っていこうと思います

(バリバリのネタバレ含みます)


"人は分かり合うことが出来ないのか"

終盤、上十二滝村で家福が放った
「それでも生きていかなきゃいけない」

愛する妻を亡くしても
その妻が浮気をしていたとしても
仕事が上手くいかなかったとしても
希望を捨てずに生きていこう
という表テーマ?がありつつも

長尺で描かれた感情抑えた本読み

感情を抑えた上での瑞々しさを表現する
演出というのは分かっているけど
裏を返せば人とは分かり合えないと断絶して
台本通りのセリフを染み込ませているのではないかと
考えると家福という男の怖さがみえてくる
本当に分かり合おうとするのであれば
後ろに字幕をつけなくてもいいのではと思ってしまう
(字幕だけで物語が成立してしまうから)

おそらく家福の事をこう思ってるのは少数だと思うが
そんな男を上十二滝村での言葉を放つまでの変化を
与えたのがドライバーの渡利である

きっとこの映画に心を揺さぶられた要因は
家福の気持ちの変化と渡利への憧れだと思う
(西島秀俊と三浦透子の演技と言っても過言ではない)

運転操作は常に滑らかで、
ぎくしゃくしたところはまるでなかった。
エンジンの回転数を一定に保つことを
心がけているようだった。
エンジンの音の変化に耳を澄ませて、
ようやくギア比の違いが分かるくらいだ。
アクセルやブレーキの踏み方も柔らかく注意深かったー

小説では渡利を雇うまでに
他の話も含みながら4頁にわたり綴られていたが
映画では「この辺りを少し運転してくれないか」
家福の一言から始まり多くを語らずに
渡利を雇うことを決める。
その中には渡利のドライビングスキルや
家服の目線、表情で上記セリフを感じ取ることが出来た

この辺りは映画の醍醐味であり演者の真骨頂だと思う
(監督も今回の映画は役者に助けられたと言っていた)

作中ではほぼほぼ目が合うことがなかった気がする
車内で家福と渡利が話す時も
バーカンで家福と高槻が話す時もそう
浮気を目撃した全身鏡であったり
直接目が合う部分が少なかったが故に
高槻が車内で面と向かって物語の続きを話す場面は
本当に訴えたい気持ちが伝わってきた

"気持ちを汲み取れる人でありたい"

沢山会話をすればそりゃ知れることもあるだろうし
もっと簡単に言えば体を交わらせれば
次のシーンで仲良く映すことなんて簡単なもの

ゆっくりと時間をかけて距離を縮めていった
からこそ得られる感動があった
(そう考えると2時間59分は妥当な時間なのかも)

直接的に何かを問うわけでもない
相手から言葉を引き出す力を持っている
相手が語りたくなるような空気を作れる人

渡利を演じた三浦透子がインタビューで
語っていた言葉

そうそう、その通り
当方、しかとその人物像を受けとりました
(頭で描いた役を演じられるのもまたすごい...)

受け取る相手にとってどのように響くか
という事をちゃんと考えて言葉選びをできる人

きっとそれはただ言葉数が少ないだけではなく
内側から溢れる人間性だったり
今までされて嬉しかったこと嫌だったこと
そういう経験を含めて選択肢が広がって
選べるもののような気がする

なんてとこから渡利みたいな人に憧れてしまった〜

だらだらと書いてきましたが
最後の終わり方についての個人的考察

場面が変わって韓国で渡利が1人
買い物をしているシーン

家福は渡利に出会って全てをリセットするため
音の呪縛のようなテープが流れる赤いサーブを譲り
新たな一歩を踏み出したのではないだろうか

そしてもちろんフィクションというのは前提に
絵に描いたような"作り話"だけど
スーパーでマスクをしながら買い物をしているシーン
マスク一つで一気に現実世界に戻された気がした
さりげなくすごいギミックを駆使する監督だなと...

以上、まとまりのない個人意見でした〜


p.s
アカデミー賞4部門ノミネート
おめでとうございます◎

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