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私のファシリテーション観

私のファシリテーション観は、ジル・クレマンというフランスの庭師の、「動いている庭」という本から大きな影響を受けてきました。
庭師が手がける庭というと、綺麗に刈り込まれ、人工的に制御された空間を思い浮かべる人が多いと思いますが、クレマンは、「できるだけあわせて、なるべく逆らわない」という考えのもと、土地を土地のダイナミズムに委ねるような形で庭づくりを行い、現代造園の世界に衝撃を与えてきました。
つまり、計画や制御を手放して、庭という空間を、自分たちには制御不能な、そこにある生命たちに明け渡していくようなスタイルを生み出したのです。

例えば、庭の道の真ん中に雑草が生えてきたとき、普通の庭師であれば雑草を抜くと思いますが、クレマンはそうせず、そのまま生えたままにして見守ります。
例えば、庭に大きな倒木が転がっていたとしても、片付けないでそのままにしておき、倒木の幹からあらたな草木の芽が出るのを待ったりします。
そんなクレマンが手がけた庭は、ほとんど手入れがされておらず、本当に庭師が手を入れたのかという雑然さで、造園の世界ではかなり批判もされたそうです。
しかし、クレマンは、庭は人が驚きと出会う場所だと考えており、思わぬところから草花が出てきて、風景を変貌させてしまう、そんな制御不能な出来事を、むしろ望み、楽しんでいます。
クレマンは、人工的に制御されていない部分・制御できない部分にこそ、庭の本質があると考えました。

私は自身のファシリテーション観において、このクレマンの思想に強い影響を受けています。
ファシリテーションにおいても、対話の場を制御するのではなく、そこにいる人達の衝動や創造性を最大限尊重しながら、できるだけ合わせて、なるべく逆らわず、場のダイナミズムや生命力に委ねていく形が、もっとも理想的な形なのではないかと思います。
それは、クレマンにあやかれば、「動いている対話」とも呼べるかもしれません。

しかし、自分の中で、クレマンの庭の思想からファシリテーションを考える時に、どうしてもしっくりこない部分が一つあります。
仮にファシリテーションという営みをクレマンの造園論に置き換えて考えると、ファシリテーターは庭師の立場にあり、対話の場の参加者は植物の立場にあたると思います。庭師は、なるべく場に逆らわない形で、最低限の庭の手入れを行なっていきます。ファシリテーターも同様で、対話の場において、参加者に対する足場かけの支援はしつつ、できる限り参加者の創造性に場を委ねていきます。
ただ、ここにはある種の非対称性があるのではないでしょうか。たしかに、庭師は植物たちの生命力を最大限尊重はしていますが、庭師は植物たちに対して間違いなく特権的な立場にいます。ファシリテーターも同様であり、参加者に対して、ある種の特権的な立場を持っています。構造的に仕方がない部分があるのはわかりつつ、自分はこの特権性がなんだか気持ちが悪いのです。

クレマンの庭と同じように、ファシリテーターはできる限り背景に退いた方がいいという考え方の人もいます(ファシリテーターが場に影響を与えすぎてしまうことへのリスクを考えると、それは正しい考え方だと思います)。ただ、背景に退くことができるのは、ファシリテーターが特権的な立場にいるからとも言えます。ファシリテーターがその特権性を脱ぎ捨てて、対話の場に入っていくことはできないのでしょうか。それはファシリテーターとしての職務放棄、あるいは許されざる越境行為なのでしょうか。ファシリテーターとしての職務を果たしながら、それと同時に、一人の人間として対話の場に参加することはできないのでしょうか。

人類学者のティム・インゴルドは、「人類学とは何か」という本の中で、「人類学とは、世界に入っていき、人々とともにする哲学である」と語りました。
私は人類学の専門家ではないため詳しくはわかりませんが、フィールドワークが現地の人々へ与える影響を非常に気にかけてきた人類学の世界において、人類学を「世界に入っていき、人々とともにする哲学」と考えるインゴルドの立場はかなり異端なのではないかなと思います。もはやインゴルドがやっていることは、正当な意味での人類学ではないのかもしれません。
しかし、私はインゴルドの考え方に非常に共感します。自分も一人のファシリテーターとして、いや、一人の人間として、客観的な立場に立った対話の場の観察者として振る舞い続けるのではなく、その世界に自ら入っていき、人々と共に対話し、学び、時に傷ついたりもしながら、一緒に哲学をしたいと思っています。
もしかしたら、他のファシリテーターのみなさんからは、そんなものはファシリテーションではない、と言われてしまうかもしれません。でも、もしもそう言われたならば、もはや自分はファシリテーターという肩書きを名乗らないでもいいかなとも思っています。めちゃくちゃかっこ悪いですが、「一緒に対話して、一緒に学んで、一緒に変わる人」とかの方が自分の実感には合っているかなと。

他者と対話をして、それにより自分自身が何も変わらなかったのであれば、それは果たして対話をしたと言えるのでしょうか。これは、対話の参加者だけでなく、ファシリテーターも同様なのではないかと思います。たとえファシリテーターの立場であったとしても、その対話を通じてファシリテーター自身になんの変容も起こらなかったのであれば、それは対話に参加したと言えるのだろうか。そのためにも、やはり自分は、ファシリテーターであっても、一人の人間として「対話の場に降りる」という瞬間が必要なのではないかと思います。

そんな風に偉そうに書きましたが、ファシリテーターとして日々仕事をする中で、そのような理想はまだ満足に実現できていないばかりか、正直どうすればそれを実現できるのかすらもまだわかりません。ただ、我々ファシリテーターがそのような特権性を持っているということや、そうした権力関係の網目の中に自分たちが立っているということには、せめて自覚的でありたいと思っています。

ファシリテーションの仕事に関わっている方や、ファシリテーションについて普段から考えている方が、この問題をどう捉えているか聞いてみたいです。こうしたテーマに興味がある方がいたら、ぜひ声をかけてもらえると嬉しいです。

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