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高校1年の私、ありがとう

高校時代、とある運動部へ入部したこと。これが、自分の半生に多大なる影響をもたらすとは思いもしなかった。


自己都合で練習を休んだことはなく、引退試合までしっかり打ち込んだ。しかし、そのスポーツは大学生になってから一切していない。

それにもかかわらず、この部活動なしに今の自分はあり得ないと断言できる。

そこで、部活動へ入部するという選択が、人生における数々の分岐点の礎となりえた様を綴ろうと思う。

入部のきっかけ

中高一貫校に通っていたのだが、私の学校では、中学から高校までの6年間、同じ先生が授業を受け持つとは限らなかった。これは、教員免許の有無とは関係ないようだ。

中学の英語のA先生は厳しかったものの、生徒に真剣に向き合い、しっかり育てようとしてくださっていた。それゆえ学年の大半は、A先生に高校も引き続き担当してほしいと思っていた。
しかし、私達が高校1年になる年に、A先生は中学1年の担任となってしまった。


また、部活動の中には、高校からしか入部できないものもいくつかあった。
そのうちの1つの顧問が、A先生だった。


誰もが高校から始める部活動で、部活動としては少し珍しいものであり、且つA先生が顧問を務めている。
そんなことから、体験入部をした。

実際にやってみて、活動内容は性に合いそうだった。また、身だしなみや挨拶等の礼儀作法に厳しいところも部活動らしくてよいなと感じ、正式に入部することにした。

部活動での私

日々の練習は、体育館で軽いジョギング等をして体を温め、全員で円になって柔軟体操をした後、本格的に始まる。

ある日、柔軟体操をしていると
「柔らかいなぁ。俺にも分けてくれよ。」
と、A先生から言われた。

昔から身体は柔らかい方だった。また、中学の途中から部活動を始めるまでだが、ダンスを習っていた。その名残から、毎日柔軟体操をしていたこともよかったのかもしれない。

どうも、顧問・副顧問・全部員の中で最も身体が柔らかかったらしい。

A先生は皆に呼びかけ、私には体操を続けるよう指示した。
「お前ら、これぐらい目指せよ!」
全員が私を見て、驚いていた。


試合では身体が柔らかい方が有利であるものの、柔らかいから勝てるということもない。

ただ、A先生の何気ない言動は、とても嬉しかった。


部活動では、部長や副部長を務めたわけでも、試合で優勝したことがあるわけでもない。引退試合も悔しい結果に終わった。

しかし、最後まで部活動を続けられたという達成感は、何にも代え難いものだった。

大学受験

苦手科目の克服

部活動の引退や体育祭の後、いよいよ大学受験一色の日々となった。

志望校、志望学部・学科は、正直なところ、へそ曲がりな考え方や妙な負けず嫌いによって決めたものだった。
将来したいことを決めきれないなら文系にしておこうかとか、せめてこの人と同等として認められたい、など。

とはいえ、合格したいという気持ちだけは強かった。

そんな私にとって特に大きな壁となったのは、国語だった。小学生の頃は得意だったはずが、いつの間にか点数を取れなくなっていた。

得意な人に言わせれば、国語も数学と同じく答えは1つに決まるらしいが、私にはそう思えなかった。
選択問題も要旨をまとめる問題も、「同じ文章でも、人によって解釈が違うはず」、「私の回答ではなぜ不十分なのか」などと疑問が湧くことも多々あった。


このままではいけない。でも、自分の担当の国語の先生はどうも合わない…。
困っていたとき、ふと思いついた。


部活動の副顧問のH先生に、ダメ元で相談してみよう。


H先生の担当科目は国語で、その前年まで高校3年の担任だった。私が高校3年になった年、中学1年の担任となっていた。
ただ、部活動では大変お世話になったものの、授業を受けたことは一度もなかった。

今でも何かと抱え込みがちで、SOSをなかなか発信できずにいがちだが、当時はそれがもっとひどかった。
そんな私が、ありったけの勇気を振り絞り、中学の職員室へとH先生を訪ねた。

「私の国語をみていただけますか。」

事情を説明すると、H先生は
「みるわ。今から中学国語みるの続くし、俺の頭鈍らせんためにもちょうどいい。」
と、快く引き受けてくださった。


それから、通常の宿題等に加え、H先生から出される課題にも取り組むことになった。
やり終えた課題をH先生へ提出する。お互いの都合を合わせて、直々に添削や解説をしていただく。解説を聞いたうえでやり直し、再提出…という日々だった。

これに加え、英作文の添削のみ、顧問のA先生にしていただいていた。

入試本番

そうして、ついに入試本番を迎えた。

当時、私の志望校の合否判定は、大学入試センター試験と二次試験(英語・数学・国語)の結果によるものだった。

センター試験の自己採点結果では、合格可能性は五分五分。

二次試験の過去問や模試で、英語と数学はそれなりの点数が取れていた。数学については、満点だった年もあった。

これに対して国語は、ある模試で150点満点中39点、偏差値も39ということもあった。しかし、H先生のご指導により、徐々に得点できるようになってきた。


二次試験当日。
最初の科目は数学だった。過去問とは比べ物にならないほど難しく、どうにも解けない。ひたすら考察の軌跡を残すことで終わった。

後から知ったが、本番だから難しいと感じたのではなく、本当にその年の問題が異様に難しかったらしい。

とはいえ、当時はそんなことを知る由もない。
数学は引きずらない!と必死に切り替え、残りの2科目に挑んだ。

試験後、2日ほどリフレッシュし、合格発表後に行われる後期試験に向け、猛勉強を始めた。

あれほど数学が解けなかったうえ、国語の古文の知識問題を間違えたとわかった時点で、前期は不合格だと決め込んでいた。
後期での合格はきわめて難しいものの、後期も不合格では浪人生になることが決まっていたため、かつてないほど机に向かっていた。

そして、合格発表当日。
諦めきっていたのと必死すぎたのとで、母から
「もうすぐ合格発表だから、(webサイトを)見る準備しようよ。」
と言われるまで、パソコンの電源すらつけていなかった。


発表時刻になり掲示ページのリンクをクリックすると、すんなり開いた。


私の受験番号は、あった。

ちなみに、父はずっと前から会社のパソコンで待機していたにもかかわらず、掲示ページにまったくつながらなかったらしい。

こうして私は、理由はともかく合格したかった第一志望校に、入ることができた。

就職活動

選考が進まない

大学生になり、人生の夏休みだ!などと言っていたのも束の間、就職活動が始まった。

大学では、学業にはほどほどに取り組んだものの、部やサークルの活動に勤しむことはなかった。
アルバイトは、学習塾のチューターや、百貨店やレンタルショップの接客などを経験した。接客のアルバイトではいずれも、呼び込みやレジ打ちのみならず、店内調理や入荷処理、開店・閉店作業等もしていた。

ただ、正直なところ、いわゆる「ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)」として、胸を張って言えるようなものは思い当たらなかった。

というより、「これを面接官に伝えたところで、大したことではないし…」、「本当のことでも、ひけらかしやはったりに聞こえるんだろうな…」と、考えすぎていたかもしれない。


そうして自分のアピールポイントを見つけられないまま、あらゆる業界のメーカーのエントリーシートを書いた。

メーカーを志望したのは、人々の生活に欠かせない、手に取って確かめることのできる「モノ」を作っている、そんな企業に勤めたかったからだ。


エントリーシートの通過率は、およそ半々。しかし、その後の選考が進まない。
周囲で内々定を獲得する人が増えるなか、2次、3次募集をする企業を探してはエントリーシートを出す。そんな日々が続いた。

父の助言

ちょうどその頃、父は勤め先の人事部で採用選考に携わっていた。業界は違えど、娘の就職活動が難航していることに気づいていた。

ある日、父から言われた。

「エントリーシートとか面接で、高校の部活動のことも触れてみたら。
大学時代に限らず、想蒔がどんな人間かが伝わることが大事。」

大学での経験しか語ってはならないと思い込んでいた私は、意表を突かれた。

もちろん、高校時代よりも直近のエピソードの方が望ましい。
けれども、たとえ数年前の話でも、今もこのように変わっていないとつなげられるのならよいのでは。「大学時代に…」との文言がない問いへの回答であれば問題ないのでは、というわけである。


いざ高校の部活動のことをエントリーシートへ書いてみると、それまでよりもうんと通過率が上がった。
部活動が珍しいものだったゆえ、面接でも大抵くいついてもらえた。


そうして、だんだん選考が進むようになった頃、とある企業の面接で聞かれた。

「では、高校の部活動で、どんな役割を担っていましたか。」

咄嗟に顧問のA先生の顔が浮かび、大真面目に私はこう答えていた。


「柔軟体操の見本でした。」

面接官は、堪えきれずに吹き出していた。


翌春、私はその企業の入社式に出席した。
他の企業からも内々定を頂いたが、最も自分のことをわかってもらえたと感じたからだ。

初任地での再会

初期配属先は、入社前から言い渡されていた。営業として、まずは支社へとのことだった。

3月中に配属後の住居で必要な家具や家電等を手配した後、SNSで近況報告をした。大学卒業や初任地に関してだった。

その投稿に、1件コメントが届いた。

「〇〇(初任地)へようこそ」

大学のゼミの同級生Yからだった。

各ゼミの人数は1学年あたり10人前後だったこともあり、先生やゼミ生とともに幾度か食事をしたことがあった。そのなかで、Yが〇〇出身であるのも聞いていた。

その時点では、コメントに簡単な返信をすることで終わった。


本社での新入社員研修を終え、初任地で仕事をし始めて数日経った頃、Yからメッセージが届いた。

「もう〇〇にいる?」


それを機に、Yと食事や映画へ行くようになった。

そして、3度目に2人で食事をした帰り道。忘れもしない、夏季休暇最終日。


Yと私は、彼氏と彼女の間柄になった。


父と母がそれなりに早く結婚していたため、私も早く…!という気持ちが強かった。それゆえ、何かとYに迫ってしまっていた。

定時帰宅できることがほとんどなく、休日にせっかく会えても、ひどい態度をとってしまうこともあった。

そんな私でも、Yは受け入れてくれた。


そして、私が本社へ転勤となり、遠距離恋愛が始まって数ヶ月となった頃。


Yからプロポーズをされた。

もちろん、私は快諾した。

こうして、Yと私は晴れて夫婦となった。

資格講座での出逢い

大人の学び

とあるメーカーへ総合職として入社した私は、全国転勤を余儀なくされていた。これに対し、夫Yは転勤の可能性がほとんどなかった。

結婚しても別居になるのは…ということで、結婚予定の報告と、転職希望の旨を当時の上司Kに伝えた。
すると、Kは私を前の支社へ転勤できるよう、上層部に掛け合ってくれた。K自身の過去に、私たちが重なったとのことだった。

これにより、私は転職せずに済んだ。両家の顔合わせを終えた後、Yと私は同じ屋根の下に住みながら準備を進め、結婚式を迎えることができた。


しかし、いずれは転勤が待ち受けている。また、私が残業続きだったゆえ、一緒に住んでいても平日はほとんど顔を合わせない、という日々だった。

そんな状況を打破しようと、転職エージェントに登録したり、資格講座の説明を聞いたりするようになった。


とあるweb系資格講座のカウンセリングを受けに行ったときのこと。
その講座の受講は一旦持ち帰ることにしたのだが、パンフレットに同封されていたチラシが目に留まった。色彩に関する講座の案内だった。

専門的に学んだことはなかったが、色にまつわる話には関心があり、よく読んでいた。その講座の内容は、色について深掘りする分野が、まさに私が興味を持っていた方面のものだった。

web系資格講座の話をしてくださった方が私の様子を見て、色彩系資格講座の担当者を呼んでくださった。

概要を聞き、私はその講座を受講することにした。
元々は手に職をつけるために何か資格を取りたいと思っていたはずが、そんな思いはすっかり消えていた。
純粋な知的好奇心から、学びたいと感じたのだ。

note開設のきっかけ

その講座は、アットホームな雰囲気で行われた。内容は、期待を遥かに上回るものだった。

しかし、それ以上に、R先生と他の受講生と実りある、温かい、かけがえのないひとときをすごせたことが1番の収穫だった。

30回足らずで講座は終了したものの、同じ時間を共有した者同士、数年経っても時折メッセージをやり取りする仲だ。

私にとって、家族や親戚、学校や職場以外で初めてできた、本音を話せる存在である。


講座受講中に妊娠した私は、それを機に退職を決めた。
元々転職を検討していた身ではあったが、休まざるを得ない期間が生ずるこのタイミングでしか、退職はできないと考えた。
また、復帰後も同じ部署で同じ職種として働くことと決まっており、育児も仕事も中途半端になってしまいそうとも思えたからである。


出産後、毎日が飛ぶように過ぎていくなかで、また働きたいと感じ始めた。
様々な働き方を検討するにあたり、講座のR先生がどのようにキャリアを築いてこられたのか、ふと気になった。

思い切って実情を打ち明けたところ、R先生はビデオ通話の時間を設けてくださった。

会話を通じて、心の奥底にあった本音が引き出されたうえ、焦らず落ち着いて将来を考えていこうと前向きになれた。


そして。
話の中でR先生からやってみてはと勧められたのが、noteである。

noteの存在は以前から知っていたものの、始めると他が疎かになってしまうかも…と、考え、他の方の記事を読んだことさえなかった。


しかし、R先生からの言葉が背中を押した。

「『きちんと』でなく『なんとなく』『ゆる〜り』する、そんなものがあっても良いのでは?」


ありのままの自分が、やりたいことを好きなようにできる場。そう捉えれば気軽だし、やってみよう!

こうして、今に至っている。

おわりに

部活動そのものを通じて、体力や根性がつき、素敵な先生方に出逢うことができた。そのおかげで、志望校にも合格できた。
部活動での思い出が就職につながったことで、結婚、講座受講、当記事の投稿にまで至った。

部活動なしに、このすべてが成り立つことはまずあり得なかっただろう。


もちろん、入部することで他の多数の可能性への道筋は途切れたかもしれない。
入部しないという選択や、入部したとてそれ以降の選択によっては、まったく異なる人生を歩む自分もいただろう。

しかし、育児や家事に追われ悩みも尽きないといえど、今幸せに暮らせている原点は紛れもなく部活動だ。


日常的なものから人生を大きく左右するような重大なものまで、これからも沢山の選択をしながら私たちは生きていく。

捉え方次第で、「あの選択をしたから今がある」と、前向きになれる選択は、きっと誰にでもあるに違いない。


当時は「何気なく」選んだこと。それが、こうして今の自分を形作ってきたのだと、振り返ってみて気づくことができた。

また、今の自分につながったと言える選択が、自分自身によるものであったことも嬉しかった。今よりもっと優柔不断で、人の顔色伺いばかりしていた人間だったゆえ、尚のことだ。


高校1年の私、入部してくれてありがとう。

そして、最後までお読みくださいました皆様、本当にありがとうございました。

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部活の思い出

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