20200502 野村喜和夫 Suff Daddy

快晴。ロフトは暑い。gwなので寝る。

16時過ぎに外出。高円寺の七つ森でカフェオレを飲みながら野村喜和夫「ニューインスピレーション」を再読。前読んだところと違うところが気になる。表題作でもある「ニューインスピレーション2000」は生成変化だとか女性になることだとか現代哲学の用語がゴロっと入っているので調べないとな、と思ってメモを書いて挟んでおく。葉は生成であるというのは分かる。この分かるというのは説明できるということではなく、感覚として知っているという類のこと。

散歩している時は音楽を聴いている。Suff Daddyの曲をいろいろ聴いてみる、こういうビートが組めたらなと思いながら聴く。作風がはっきりしている人の作品はどうしてもその作風を分析し、作品間の差異は捨象していくような観賞をしてしまいがちになるが、個々の作品で現れては消えていく試行の跡を聴き取るのもたのしいだろうな、といま書いていて思った。Jorja Smith のOn My Mindのリミックスが良かった。原曲をカットアップしてSuff Daddy印のヨレたドラムにのせたもので、正直原曲の雰囲気はかなり失われているのだが。ついでに原曲も聴きなおす。UKgarageのダンサブルなビートにこの失恋の歌詞がぴったりくる理由はよくわからない。

音楽を聴いている間はろくに物を考えることができない。身体が半分音楽になっているので跳ねたり歌ったりする。何かが身体の動きを通じて生じているのだが、それは言葉ではない(すくなくとも、僕が書き留めることのできる言葉ではない)ので音楽が止まると消えてしまう。Twitterを見ている時も同じ感じになっている。身体は場に溶けていってしまう。その場で何かをいったりするけれども、場が流れていってしまうと何も残らない。ツイートしたことを忘れてしまうのは、ツイートがTLなしでは存在しえないからだ。

読んだり書いたりする時は別のモードに入る。沈滞している感じの。散歩は基本的に音楽になっている状態なので、喫茶店に入って沈滞するモードに入るのには苦労する。詩を読むことはそのモードへの入り口になる。日記を書くことも。最近はこのモードに入るためには姿勢が大切だと思うようになってきた。ソファに深く腰掛けたり、机に向かったりして、外部を遮断できないといけない。目の前が空白になって、何をしたらいいのかわからないという状態をつくらないと、何かを立ち上げることはできない。ような気がするが、とにかく何をしたらいいのかわからない状態は怖いので、この状態に入っていくのはどうしても億劫になってしまう。どうにかならないかな。

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