2020429 野村喜和夫 KOHH Jodie Mack
快晴。休み。
朝起きて野村喜和夫の評論を読み進める。宮沢賢治と室生犀星の共通性として死せる女=詩へのオルフェウス的接近があるという話。特に「あめゆとてきてけんじゃ」の雨雪を詩的言語と重ねて「てっぽうだまのようにかけていく」ことで詩的言語へ向かっていくという解釈は面白かった。その解釈自体は野村のものではないようだが。あと、詩的言語への接近する過程自体が彼らのキャリアのピークとなり、その接近が果たされた後は書くことがなくなるというのはKohhのことを思い出させた。
kohhは芸術とFameとの板挟みを切り抜けて「Fameを罵倒し芸術を称揚する姿勢でFameをも掴む」という達成をDirtでなしえたがその後はもう歌うべき主題を失っていると思う。「Worst」が届いたので通して聴いたのだが、その思いを一層強くした。ここにはなにもない。ファインアートへの憧れの姿勢はあるが、それはファインアートではないし。
同居人がMubiという映画配信サービスに登録しており、彼女が見ていたJodie Mack の「THE GRAND BIZARRE」を横から見る。トルコのような市街地に色とりどりの織物が置かれたりするのをひたすらコマ撮影しストップモーションにしたような映像が永遠1時間続く。TR808のドラムにシンセが絡むエレクトロニカ的な音楽とその映像の相性がよく、気持ちがいい。ストーリーはない。「コヤニスカッティ」のことを思い出した。あれも質感が楽しい映画。
エンドクレジットを見る限り2018年の映画のようだが、わざとフィルムノイズを入れていたようにも見えた。それはちょっと意図がわからない。揺らぎを入れた方が気持ちいいということか。
後半、目まぐるしく変わる織物の模様のストップモーションに、機織りをする環境音が重なるシーンがある。ここで聞こえる機織りの音は、作られる織物の複雑さからすると気の遠くなる程緩慢だ。なにせ3秒に一度ほど「カタリ、カタリ」と音がするだけなのだ。この「カタリ、カタリ」で横糸を一回通したということなのだろうが、何度横糸を通せば織物ができあがるのか。一方映像は目まぐるしく変化する。1秒に10程度の織模様が映し出される。実際信じられないほどの量の織物が流通しているのだろう。この手作業と流通との劇的なコントラストは印象に残った。
16時ごろから散歩する。疲れる。
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