「……人魚姫って馬鹿だよねえ。なんであの時、王子様を殺さなかったんだろ」 サンマ定食を箸で突きながら唐突に呟いたA子に、私は惰性で言葉を返す。 「えー、そうかなあ。愛する人を尊重して泡になるって、ロマンティックじゃん」 するとA子は、半身を食べたサンマから器用に背骨を剥がしながら言った。 「でもさあ、王子は人魚姫の事を、喋れない可哀想な子くらいにしか思ってなかったんだよ。安っぽい同情で人魚姫を傍に置いて自分は他の女と結婚するって、つまり人魚姫の事は都合のいい女扱いじゃん。
今日は、久々の休暇。 旧友のF博士から密かに購入した『幸福を知る薬』を試すには、うってつけの日だった。 「この錠剤を飲むと、君は深い眠りにつく。そこで君は幸福な人生を送る夢を見る事が出来るだろう」 それはあまりにも非現実的な話だったが、時間はともかく金なら腐る程持っている。たまには騙されてみてもいいだろうと思い、僕はそれを購入する事にした。 とはいえ、いまの僕に対して今更『幸福』を教えようとするなんて、相変わらずF博士は何を考えているのか解らない。 僕が数年前に立ち
今日、冷蔵庫の角に置き去りにしていた苺を捨てた。 苺は腐敗こそしていなかったが、表面は干からび、黒ずんでいた。けれど今も食欲をそそる甘い香りがして、もったいない事をしたな、と思ってしまう。別に苺は好きじゃないけれど。 ついでに、玄関の萎びた薔薇も捨てた。 重たそうに首をもたげ、しわしわになった花弁を必死で繋ぎ止めている薔薇は、まるで私に何かを言いたそうにしているように見えた。折角だから、もっと早くに花瓶から出して吊るしてドライフラワーにすれば良かったかもしれない。と
数週間ぶりに、姉とLINEで連絡を取った。 新しい彼氏との関係は良好らしく、会話のログにはスポーツカーの助手席に乗って夜景を見た話や、貰ったアクセサリーの話がちりばめられている。最後に『今度こそ上手くいくといいね』と送ったところ、姉らしくない可愛いキャラクターのスタンプが返ってきた。 数ヶ月ぶりに、母と電話をした。 ホステスを辞めてから激太りしたそうだが、具体的な数字を聞くと私よりも遥かに軽かった。今は介護士の勉強をしているらしいが、果たしてあの母に勤まるのだろうか
いつもの喫茶店で注文しようとした時、店主と思しき壮年の方が優しい笑顔でこう言った。 「解っています、いつものウインナーコーヒーですね」 私は曖昧に笑いながらその言葉を肯定し、いつものように白いクリームの浮かんだコーヒーを飲んだ。クリームの濃厚な甘さとコーヒーの苦さを味わいながら、思った。私はもう、この喫茶店には来ないだろうと。 私は、いつもそうだ。 ほんの些細な人との交流すら億劫に感じてしまう自分の事が嫌になる。 お気に入りだったウインナーコーヒーを飲み干した私は
基礎化粧品をこれでもかと塗りつけた肌に、次は化粧下地を叩き込む。 とんとんとんとん。 新しく買い替えた少し高価な下地は、叩き込む度に私の肌の難をいとも簡単に押し隠してくれる。 とんとんとんとん。 とんとんとんとん。 あらかた整え終わると、次は更にカバー力の高いファンデーションをこれでもかと叩き込む。 とんとんとんとん。 とんとんとんとん。 とんとんとんとん。 ファンデーションは、だらしなく開き切った醜い毛穴も、暗く沈んだ目の隈も、ずいぶん昔に色
不思議なんだ。どうして皆、『当たり前の生活』ってやつを送る事が出来るんだろう。僕は布団から出るどころか目覚める事すら億劫で、身支度をして外へ出るなんてとんでもない行為だとすら思っているのに。 「おはよう」 「いい天気だね」 「今日もいい事があるといいね」 なんて、上澄みだけの言葉を交わし合う事に虚しさを感じているのは、僕だけなんだろうか。『もしかして僕以外の人間はみんな機械人形なんじゃないか?』なんて、今時はSFですら語られないような馬鹿げた事をつい考えてしまう。 でも
「なんでもかんでも自分が悪いって思い込むのは、あまり良くないよ」 君のその言葉は、きっと正しい。けれど、自分が悪いと思う事こそが、僕にとっての救いなんだ。 世の中は理不尽で残酷だ。降り掛かる一つ一つの事柄に対して憎悪し、嫉妬し、苦悩する事に、僕はもう疲れたんだよ。そしてある日、気付いたんだ。 『全て、僕の責任なんだ』 そう思えば、全ての事柄に決着がつくという事に。 僕が悪いのだから、誰かを憎む事も無い。人を妬む必要もない。全ての思い悩みから、僕は解放されたんだ。 「私
冬の夜。頭まですっぽりと毛布に埋まりながら身体を丸めていると、まるで小さな子供に戻ったような気持ちになる。やわらかな肌触りと、内側こもった体温のぬくもり。眠気でゆっくりと解けていく意識。 こんな静かな夜が、一番泣きたくなるのです。
無意味に傷を増やし、無意味に血を流して、無意味だなと思いながらもそれをただただ眺めています。何の解決にもならないと解っていながらも、ピンクの剃刀に手を伸ばしてしまうのは何故なんでしょう。 『人間は不条理な生き物であり、必ずしも合理的な行動を取るとは限らない』 そんな、どこかで聞いた言葉を思い出しながら、床がぽたぽたと赤く汚れるのを見守っています。こうして怠惰に耽りながらも、血が固まる前に拭き取らないと面倒だなとか、今日の服は白いから丁寧に止血しなくちゃいけないなと冷静に考
化粧ポーチには、ピアッシングニードルが一本だけ入っている。 私は時折それを取り出して、ピアッシングを施す時の事を考える。 どこにピアスを開けるのかは、まだ決めていない。普通に耳でもいいし、唇や舌に刺してもいいかもしれない。身体はどうだろう。臍ならば一人でも開けられそうだが、首や腕は少し難しいかもしれない。残念ながら私の身体にこの針を刺してくれそうな友人は居ないので、自分一人で開けられる所しか選べない。出来る事なら、もっとマニアックな場所に刺したいのだけれど、諦めるしかな
奥歯で薬をかみ砕き、布団の中に潜る。息苦しさを覚えながら、沸き起こる衝動にじっと耐える。 あと十五分。薬が効くまでの十五分さえ生き延びる事が出来れば、大丈夫。 けれど脳裏には台所の包丁だとか、クローゼットの奥に仕舞い込んだロープだとか、ベランダの欄干だとかがちらついて離れない。 私の中の誰かが言う。ほら、早くこっちへおいで。辛いんでしょう? 苦しいんでしょう? でも大丈夫、もう怖くないよ。こっちへ来れば楽になれるのだから。ここには貴方を脅かす者は居ない。貴方は自由になれ
生きた花よりもドライフラワーの方が何倍も美しく感じるのは、きっとそこに命を感じないからだ。 花に心は無いのだろうけれど、爛漫と咲き誇る花の自己主張の強さには辟易する。まるで、けばけばしい化粧を施して下品に笑う女達のようだ。 それに比べ、ドライフラワーの何と奥ゆかしい事か! うっすらと色づいた暗い花弁は、触れるだけで崩れてしまいそうな程に繊細で愛らしい。すらりと伸びる筋張った細い枝や、それに寄り添いながら身を縮こませる葉の貞淑な姿も、うっとりする程に美しい。この慎ましやか
「たとえ女王蜂になれなくても、働き蜂には働き蜂なりの幸せがあるのさ」 いつもそう言って笑っていた彼は、その笑顔のままで遺影の中に納まっていた。 形式張った黒い服を着て彼を見送りながら、思う。使い捨ての存在である事を認めていた彼にとっては、この早すぎる死すらも幸福だったのかもしれないと。 『ねえ、働き蜂の幸せって何ですか? それは本当に人間らしい幸福なのですか?』 心の中でそう問いかけながら、僕はありふれた弔いの場所を後にした。
淡い粉雪達は、手のひらの上に降り立つとすぐに溶けてしまう。あまりにも弱く脆すぎる彼らは、人間の体温に耐える事が出来ないのだ。 ふと思う。 私もこの儚い粉雪達のように、人の熱に耐えられないのではないだろうか。 こうして愛する人と手を繋ぎながら歩いている時、振り解いて逃げたくなるのは何故なのだろう。 別に彼の事が嫌いなわけではない。むしろ愛しているはず。それなのにどうして私は、こうして傍に居るのが辛いのだろう。 愛しているから離れたい。愛しているから逃げ出したい。
膝の白いシミは、小さなころに階段で転んだ傷痕。 こめかみに残った白い線は、パパに灰皿で殴られた傷痕。 手首のおびただしい縞模様は、私が私を否定した傷痕。 胸の奥底でドロドロとした黒い汚液を流し続けているのは、未だに塞がらない心の傷。