【読書雑記】保田與重郎「誰ヶ袖屏風」『改版 日本の橋』保田與重郎文庫1所収(新学社、2001年)

 宗達の作と伝えられる「誰ヶ袖屏風(たがそでびょうぶ)」が関東大震災で失われたことに痛惜の念を露わにした保田與重郎は、祇園祭の夜、商家の店先にたてめぐらした屏風のなかに宗達風の屏風を一双見つけ安堵するや、この名画の行く末を思い考え込んでしまう……。
 「誰ヶ袖屏風」、いまは「誰が袖図屏風」というらしい。もともとは「衣桁画」とも呼ばれていた。その名は、古今集の「色よりも香こそあはれとおもほゆれたが袖ふれし宿の梅ぞも」(古今集、春歌上、35、よみ人知らず)に由来する。桃山から元禄にいたる間、殊に江戸初期に屏風絵の画題として流行し、多くの作品が描かれた(現存するのは37点、過去の売り立て目録や美術全集に見出すことができるものを入れると全部で52点あるという〔奥田晶子「「誰が袖図」屏風制作の一様相」『デザイン理論』53号(2008年)pp.1-15〕)。
 描かれるのは、小袖衣装が衣桁に掛かるさま。人は描かれない。ただそれだけである。これが、横長の屏風の大画面に描き出される。われわれは、衣桁にかけられた小袖から「架空の美女」を想像するのである。
 與重郎によれば、「誰が袖図屏風」と称される最初の作品は、宗達の手によるものと伝えられてきたという。宗達の作風は(本阿弥)光悦の流れのなかにあり、上方文化に根ざす贅を尽くした桃山文化の絢爛豪華な精神を宿している。
 「宗達に於て桃山の金地を高価の顔料でうめつくす、……桃山の精神は足利期の虚漠な空白の厳しさを埋めることにあった……その中で光悦は伝統の畿内文化の匂ひを、むしろ金泥地を空白化するところで生かせた。そして宗達がこれをわが金箔障壁芸術の中で完成した感さへある」と。
 「一切の贅沢、天下一、成金の豪華……」。侘びや寂びと対極にある桃山芸術のもう一つの読み解き方がここにある(2023年12月30日記)。

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