多神教の世界にデビューして感じたこと。

一神教の世界で生きてきた私が、その道について落伍者となって、多神教の世界にデビューしてから、そろそろ2年半を過ぎました。

やるだけやってみようと、仏壇に手を合わせ、仏教と神道で行われる葬儀にも法事に行き手を合わせました。

神道式は、やまとことばなのが優しく聞こえて、意味か分かりやすく、心にすっと入ってきますね。やはり仏教はその辺、伝来したものというのを実感しました。

冠婚葬祭の時だけでなく、旅先で神社仏閣を見る時も、それまではお参りはした事なかったのを、初めてお賽銭を入れて手を合わせたりしたわけです。

そして、だいぶ仏教と神道に親しんできた今年5月に、大事な友人の結婚式がありました。たまたま友人はチャペルで式を挙げました。恐らく皆様そこはこだわってないと思いますが、プロテスタント系の宗派なのが伝わってきました。

面白いことに、仏教と神道のどの宗派であっても、ここではそうなのねと言いながらも受け入れられますが、キリスト教だと宗派の違いで明らかに違和感があって、おおざっぱにカトリックのマリア崇拝や聖人崇拝があまりピンと来ません。あとは根拠が聖書に無いというのはどうなんだろうと思ったりします。

そして、その友人の結婚式に参加してつくづく実感したことが、私はやはり聖書から話をしてもらい、賛美歌を歌い、祈りを捧げてアーメンと結ぶこの形に、一番馴染んでいるということです。

そりゃあ30数年間ずっと、生まれてすぐの時から母親に連れられて崇拝と祈りの場に行っていたのだから当たり前かもしれませんが、馴染んでいるとはこういう事なんだ、と感じました。


学生時代、日本の文化を研究する学科の友人が話していたのですが、お姉さんが結婚して結婚式を教会で挙げた時に賛美歌とかアーメンとかいうのが純日本人なのにとても恥ずかしかったのだと言うんです。ドレスを着たいと思っていたけど、私はもう神社で、文金高島田で挙げるようにしたい。三三九度の方がいい、あんなに笑いそうになりながら牧師さんの前で慣れない洋風のことをやるの恥ずかしいって。

友人のいう、慣れないことをやっている気恥しさとか、違和感やこそばゆい感じって、日本人形やこけしみたいに一重で凹凸の無い純日本人の顔立ちで普段は和室の生活なのにマリーアントワネットのコスプレをさせられている感じ(しているのではなく、させられている感じなのもキモ)というのでしょうか、伝わっているでしょうか、そんな感じです。

恐らく私にとって、仏教や神道の形式で手を合わせたりお線香をお供えしたりすることって、似合わないコスプレをさせられているかのような感じです。普段は神道と仏教文化で暮らしているのにチャペルで式を挙げるような、あの心身ともに馴染んでいない感じが、まだ私にはあるんです。

逆に、学生時代の友人にとっての、慣れ親しんだ神道で、違和感なく似合う角隠しを被って和装で挙式する感じに近いのは、私にとっては聖書と賛美歌と祈りにあたります。

もし私が死んだ時は、お経はあげてもあげなくてもお好きにどうぞですが、出来たら誰かひとりくらい賛美歌を歌って、誰かひとりくらい一度主の祈りを捧げて欲しいなって思いました。小声で構わないので。皆さんの感覚でいう、お線香をあげてもらえたら嬉しいっていうのに近い感じだと思います。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?