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けいの歴史紀行①

19世紀の日本は何故植民地化されなかったのか

今回は「19世紀の日本は何故植民地化されなかったのか。」というテーマを、私が学んできた視点で述べたいと思います。

このテーマを考える前に、明治初期に日本が急速な近代化を目指さなければならなかった理由を考えなければなりません。
日本が何故、急速な近代化をしなければならなかったのか。それは、19世紀に覇権国家であったイギリスの「パクス・ブリタニカ」と呼ばれる世界情勢にあります。当時のイギリスは、ジョンゲラーやドナルド・ロビンソンらが唱えた「自由貿易帝国主義」という政策を採用していました。18世紀に「世界の工場」になったイギリスの地位は、各国がイギリスを模倣とした工業化を推し進めた為、長くは続きませんでした。その為、イギリスの経済を支えたジェントルマンは国内産業ではなく、金融業に投機を行うようになっていきました。その金融業での利益を最大化させるために、可能であれば「不平等通商条約の締結」を目指す、自由貿易の強制を世界規模で行うようになっていきました。
この政策を行う上でイギリスは、世界の国々を以下の通りに分類をしたのです。
文明国:文化的発展が認められ、主権国として認められる国
半未開国:ある程度の文化的発展が認められ、一部の主権が認められる国
未開国:文化的発展が認められず、主権国家として認められない国
このように、世界の国々を三区分して、通商条約の交渉の余地があるか否かを判断していたとされています。
では日本はどこに分類をされたのか。それは「半未開国」だとされています。
つまり、ある程度交渉できる時間的猶予があり、そもそも、19世紀の日本は植民地化のリスクが極端に低かったといえます。
さらに、江戸幕府は海外の情勢を「オランダ風説書」や「万国公報」などによって積極的に受容し、幕末の対外交渉官は、国際情勢、国際法、国際儀礼・規則を熟知していたとされています。
最もその例が現れているのが、安政五カ国条約です。この安政五カ国条約、今では不平等条約と言われていますが、実際はある程度の成果が挙げられていた内容になっていました。
例えば「治外法権の承認」という条項があります。中学・高校では、不利益があったとしか習いません。
しかし考えてみると、治外法権を認めずとすると、その国からの司法干渉が激化する事は明白でした。
また、関税自主権の欠如に関しても、不利益ではなくむしろ日本にはとても有利でした。何故なら、税法や税率は当初従価格で20%でした。(清が結んだ天津条約では5%である。)これは、かなりの高関税で、貿易後のインフレによる税収入の増加が見込まれることになります。これによって、在来産業を保護する一助になっていました。
(実際は、1866年の改税約書で改められ、5%となる。)
このような視点で考えると、江戸幕府の対外交渉官は最悪を回避する能力が高かったといえます。しかし、それでも不平等条約に変わりはありません。進歩をしなければ、植民地化は免れなかったでしょう。だからこそ、新政府はいち早く、不平等条約を解消するために、急速に近代化を目指さなければならなかったのです。

日本が急速に近代化できた理由

では、なぜ日本が急速な近代化が可能だったのか。それを紐解いていきましょう。
日本が急速な近代化が可能であった要因は2つ挙げられると考えています。
1つ目は……
「戦国時代における、統治に必要な社会科学的知識(政治学・法学・経済学)の蓄積」
です。
戦国時代、各地に点在していた戦国大名は自国の支配を確立させるために、分国法などの国家統治の基礎知識・能力を持たなければなりませんでした。それが社会科学的基礎知識を飛躍的に向上・蓄積がなされた要因となりました。だからこそ、江戸幕府がこれまでの武家政権にない優れた統治能力をもち、安定的な時代を築いた政権となれたのです。この事が、次にあげる理由にも繋がります。
2つ目は……
「江戸時代中期(18世紀)に幕藩体制の変革期があった事」
です。
実は、江戸時代の中頃(18世紀)、幕府は大きな問題に直面していました。
それは、江戸時代初期の仕組みが制度疲労を起こしていたことにあります。また、7代将軍・徳川家継が急逝し、徳川宗家が断絶をしました。
これを期に8代将軍に就任した、紀州藩藩主であった徳川吉宗が諸改革を進めていきました。この「享保の改革」が明治時代以降急速な社会変革を受け入れられる土壌が醸成されていったのです。
まずは「公事方御定書」や「御触書寛保集成」などの法整備を推し進めた事があげられます。
この事が、明治維新以降に法治主義を受け入れる体制が確立される要因となった訳です。
次に「足高の制」という優秀な人材を登用するため、役職についている期間経費をサポートする制度を構築した事が挙げられます。
この事が、明治維新以降の家柄にとらわれない能力主義による統治である「官僚制」を受け入れる前提が構築出来た要因となった訳です。
最後に荻生徂徠の献策によって公文書管理システムが成された事が挙げられます。
この事が、明治維新以降に文書行政を受け入れる体制が構築出来た要因となった訳です。
総括すると、江戸幕府が優れた統治能力を保有していたからこそ、江戸時代中期における一連の改革が成功したと言えます。

終わりに……

如何だったでしょうか??
19世紀の日本は何故植民地化されなかったのか。それは、我々日本人が積み重ねてきた歴史が大いなる力を与えていたことがお分かり頂けたと思います。
次の歴史紀行では、明治政府の政治・経済体制について詳しく見ていきたいと考えています。
次回もお楽しみに……

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