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繋がる意図
自分は制作に対して、意味をもって一つ一つ積み重ねて確立したものにしているつもりだった。
しかし今日自分が行きたいと思っている大学院の先生の展示を見れば、いかにお座なりに、感覚的に作っているのかに気づかされた。
アートは全てを意図して構築していかなければならない。そして、それが伝わらなければ、本来の作品を誤って鑑賞者に捉えられてしまう。
それが悪いことだとは言わないが、そういう小さい認識の違いが難しさにつながる。
鑑賞者の私は、どの作品に対しても、作家が示す意図を汲み取って作品を楽しみたいと思っている。でも、まずは自分の見方を持つ為にキャプションを見ずに作品を観る。そして、読み解く努力をする。もちろん色や形やテクスチャによる直感的な品の感じ方は一意見として大事にすべきだ。が、自分の見方だけを大事にすることは、もっと作家の価値観を知れる機会を逃すことになる。
私の周りは価値観や表現したい内容より、その制作プロセスを重要視し、どうやって作るのか気にする人が多いので、根本的な価値観をすっとばして見ることが多い。でも、なぜそれを作るのかとかこの作品が存在する意味をはっきりとさせることで、その作品の奥行きが出るとはっきり思う。それは人に理解させるというよりかは自分で自分を理解させる理由なのだと思う。
しかし、私はそれを怠っていた。サイズや展示方法、写真の仕上げ方、写真の撮り方、選ぶ為に必要な要素...
色々試して面白いと思ったものは採用していくも、それがなぜ面白いのか、なぜ感覚的に良いと思ったのか、追求することができていなかった。私は作品を完全体にすることから逃げていた。決定することが怖かった。
今日見た先生の作品群は全て完全体だった。
まず、この展示会場で行う意味がある。
このギャラリーは30年以上もの間使われ続け、来年にその歴史の幕を下ろす。その長年でできた壁の傷や汚れを一部白いベニヤ板で隠すことによって、より周りの傷などを目立たせる。そして隠れた部分の汚れを鑑賞者に想起させる。
そして、もう一つの題材の作品も細部にまで意図が張り巡らされていた。
その作品はB4くらいの大きさのボール紙にL判の写真がぺたりと貼っている簡素な作りだった。なぜL判なのかと聞くと、それはあえてアルバムに入れるような馴染みのあるサイズに入れておくことで、自分の見慣れた何気ない思い出の一部だということを伝えるためだ、と仰った。
ちなみに、日焼けさせることを想定した作品なので富士フィルムの丈夫な写真紙ではなく、あえて街の写真屋さんで頼んだそうだ。
私は自分のアートワークを省みるといかに粗雑な作りだったか理解できた。その後に見せるポートフォリオはなんと醜くて恥ずべきものだったかと嫌になってしまった。私は悔し涙を堪えた。
でも、このことに気づけた私の今後の作品は必ず芯のあるものになると思う。
自分に足りなかったものに気づけただけで今日は十分意味のある一日だったと考えよう。(そうじゃないと壊れてしまいそうだから)
もっと勉強しよう。もっと自分の作品に執着しよう。もっと制作に向き合おう。
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