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なんにも出来てない自覚

最近、軽度障がい者の方々が暮らすグループホームで世話人をやっている。

きっかけは自分の美術制作にある。
私は人との関わりにくさみたいなものに焦点を当ててそれに対する自分の考えを美術作品として表現していた。
例えば自分や友人のHSP的な気質や、外的ストレスによる過剰な他人への拒否反応など、私にとって、人と関わることは難しくて、それをどう捉えるべきか考える必要があった。

人と関わる上でコミュニケーションは重要なことだと思う。相手の意思を慮ることも必要だけど、それと同時に自分の意思を相手に理解してもらうことも必要だ。でないと関係を続けていくことが自分にとって負担となり、出来なくなる。大学3年生の頃精神科医にそのことに気づかせてもらい、かなり意識しながら生活している。

自分は精神障害を患っていないが、環境がもっとひどかったらメンタルが弱い為、鬱になっていたと思う。
私は自分自身の経験から、精神疾患に対して興味があったし、理解を深めて美術制作に繋げるべきだと思った。

グループホームには色々な症状の人がいる。でも、世話人だけでなくホームの管理者や、ご家族、地域の福祉課や、就労支援の方など、沢山の支えがあり、小さな不安は常にありつつも問題なく過ごせているように思う。私が見えていなかっただけで行政の手厚い福祉支援は行き届いているようだ。

私は悩みだけでなく他愛もない話をしてくれる彼女達のことをとても大切にしたいと思うし、とてもやりがいのある仕事だと感じている。しかし、同時に自分の本来の美術家としての目的をずいぶん疎かにしていることに気づいた。
最近の私はバイトか人と会う約束かで、制作を全くしていない。
自分は制作のために精神保健福祉士の資格を取ろうと決めたけれど、実際それが美術家として何に役立つか具体的な理由を見出していない気がする。
「美術」と「社会」と「福祉」この三つの言葉が私の頭の中にあるのだが、それがどう結びつくのか皆目検討がつかない。

自分の興味に近い美術作家としてソフィ・カルが挙げられる。彼女は自身の親密な体験をテーマとして、他者と会話して辛い出来事や、美しいものなどを聞き、それをもとに制作をしている。彼女が向ける他者への視線はとても共感を含んでいるが、それでいて自分を同居させていないように思う。
彼女の作品を鑑賞することによって沢山の人々とコミュニケーションをとり、多様な価値観を受け入れることができる。

私も私の制作物で多様な価値観を鑑賞者にうけいれてもらいたいと思うのだけれどその方法がまだ見えていない。
恐らく私は私の美術作品を軽視している節がある。私の作品が問題を解決してくれる訳じゃないと思ってしまっている。
私の中の問題を作品として提示しても、それは解決にはならないし、果たしてそれで社会に何の影響を与えられるのだろうか。
私は美術家として、なにを鑑賞者に見せてあげられるのだろうか。

でも、私は今この問題が見えただけでも、このnoteを書いた意味があったと思っている。これから図書館に行って、何をすべきか考えてみようと思う。

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