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共感が出発点

先週からコロナに罹り、望まない9連休を得た。
今日が8日目でそろそろ社会復帰の準備を、と料理教室に行った。料理教室は5人の生徒と指示役の先生で上手くひとつのメニューを完成しないといけない。ある程度はコミュニケーションも要るし、協調性が必要な作業が多く、自分にとっては仕事前のステップとしてちょうど良かった。

社会人になってからは随分人と上手く関われるようになったとおもっていた。しかし、数日だれとも会わないだけで、他の生徒と何気ない会話を普通にするだけで、知らずと自分の手の震えが止まらなくなっていた。思い出した、私は集団が苦手だったんだ。

お休みの間、自分自身について考えることが多かった。今の仕事のこと、前までのやりたかったこと、今後やりたいことなど。
私は福祉系の資格を取ったけど、その取るに至った経緯や取るまでの過程の中で人との繋がりに対して強く興味が湧いていた。美術業界でも人との関係などの社会問題に対して言及する形で作品を制作するアーティストは多く、それをソーシャリーエンゲージドアートや、リレーショナルアートと括られている。その多くはなにか一つのプロジェクトを不特定多数と行う事で人同士の繋がりを作ることだったりする。
私もそんなアートに対する憧れはあったが、自分とは結びつかないなと感じていた。その理由が、私がやりたいことがコミュニティワークではなくケースワークだということがやっと今日わかったのだ。

集団作りをして、自分の抱えている大変なことを分担することや、自分の役割を得ることは社会を生きる上で、そして自分自身が生きる上でとても大事なことだと思う。でも私は集団に対する不信感がある。集団がネガティブな感情を助長させ、孤立を生むのをみてきたからだ。私は私自身がそうだから、孤立した人に対して共感を持ち、受容し、その個別性を尊重したいと思っているんだと気づいた。

私の尊敬するアーティストであるソフィカルの作品はケースワークだと思う。「限局性激痛」という作品は失恋体験による痛みを、他者のもっとも辛い経験に耳を傾けることで治癒していく過程を作品化したインスタレーション作品だ。この作品も個別化と共感によって出来ていると感じる。辛い経験は人それぞれだけれど、同じ痛みを抱えている。それを受容してもらえる相手も、受容する自分も自身のことのように救われるのではと考える。ソフィカルの作品は引き続き追いたいし、ケースワークの観点から作品をみることをしていきたいと思う。そう考えると障害者アートのキュレーターも同じ括りだと言えるのではないか。個人の特性を活かし、最大限に活躍できる環境を整えることができているのではと考える。

私のやりたいことはまだ具体化できておらず、抽象的で考える時間もたくさん必要だ。だけど、日々の大変さに押し殺されず、何かに縋りたくなる自分を捨て、志を軸にして今後も前に進んでいけたらと思う。

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