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ライブペイントの可能性

横尾忠則はライブペイントを事件という。私は大袈裟だなぁと白けながら展示室の中に入った。

神戸に横尾忠則現代美術館がある。私は失礼ながら横尾と岡本太郎をごっちゃにする癖がある。どちらも鮮やかな色彩を使うイメージがあって、激しく強い印象を持っている。私はあまりそういう直接的な表現に苦手意識を持っていた。

今回の展示では1980年代から始めたライブペイントで制作された作品が時系列順に並んでいる。ライブペイントを始めた当初は本人の描きやすいヌードモデルと勢いのあるタッチで描かれた模様とのコラージュを何作か続けて制作したそうだ。

この頃の作品を見て、私はライブペイントの逃れられない圧迫感について感じとった。
横尾曰く観客の居る空間で絵を描く方が無心になるらしい。普段の制作なら筆をカンヴァスに置くことだけで自問自答を繰り返さなければならない。この構図である意味合いや、この色である必要性、このタッチの表現の適切さ、全て自分で認めなければ作品は未完成のままだ。

ライブペイントという観客が居る環境では、ある程度時間の制限があるため、完成するまで描き続けなければいけない。(例外もあるけど)そのような切迫した状況だからこそ作品を衝動的に制作でき、そこに面白みを感じたのではないかと思う。

思うにその衝動が事件を起こす時みたいに感情のまま行動していると感じたのではないだろうか。それなら横尾が観客を共犯者と呼ぶのも納得がいく。観客はみることによって、横尾に圧迫した状況を作り、横尾を横尾たらしめてくれるのだ。

横尾は何年も続けていくうちにライブペイントにエンターテイメント性を見出していく。
Y字路シリーズでは二手に分かれていく道を描き続けた。その頃の横尾はライブペイントをする頻度が多かったので構図を統一することにより、効率的に枚数を増やせるようになった。

しかし、私は構図を固定する事は単なる発想の効率化だけではなく観客にとっても親切だと思う。シリーズをライブペイントで描くということは、観客にもルールが分かった状態で描き進められているということだ。完成するのはY字路だと分かった上で、では今回はどのようなものが出来上がるのだろうという想像の余地を与えていると、より生で見る楽しさを引き出せると思う。

それに加えて横尾は絵画で道を作り出すという意味を込めて鳶職のような格好でライブペイントを行った。観客の目を意識して、描く他にもエンタメ性を見出していることに面白さを感じた。

作品も初めは写真を忠実に再現していたが、どんどん表現を簡略化したりコラージュのように人の顔を入れたりしてY字路シリーズといえどバリエーションが生まれた。ライブペイントが様々な場所で行われていたこともあり、その土地に影響されて変化していくのも面白みを感じる。例えば金沢21世紀美術館では、その館のメインでもあるスイミングプールに影響を受けて、水の波紋が描かれていた。そういった変化に観客も飽きることなくわくわくさせられたのではないかと思う。私も生きていれば見に生きたかった。

今回の展示はライブペイントの魅力を上手く伝わる面白い展示だった。是非神戸に行く機会があれば足を運んで見てほしい。

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