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健康的な関係

最近、対人関係を続けることへの怖さみたいなのがあることに気づいた。

誰かと何かを一緒にすることは感情を伝え合えるから、私が楽しいのと同時に、相手が楽しんでいることへの嬉しさがあって、相乗効果でいい経験になる。けれど、自分は長い時間を友人と過ごすことが苦手だ。それは私は友人という関係性では人と素でいられない、底意地の悪さや自意識過剰さがあるからだ。

高校生の頃、バイト先で出会ったとても可愛い女の子の友人がいた。その時期は土日になるといつも一緒にいて、すごく楽しい時間を過ごしていた。友人は可愛らしくて、将来幼稚園の先生になりたいという夢を持っていて、とっても明るい本当に非の打ち所がない素敵な女の子だった。私はこんなに最高な友人がいることを誇りに思っていた。
その友人と愛知の大規模なコスプレイベントに行くことになった。1泊2日の旅行自体はとても良いものだった。しかし、私はおそらくそれがトラウマで、人と密に関わることが苦手になったんだと思う。
単純に、私は友人に比べるとあまり外見が良くなかった。だから外側だけで判断される、コスプレイベントという場では周りの対応の差は歴然だった。自分の顔面偏差値がありありとわかり、それまで築いてきた自尊心がひどく傷つけられたのを覚えている。帰りの新幹線で私は本当に自分が嫌いになって、寝たふりしながら泣いたのを覚えている。強く感じた劣等感と、その友人を拒否したくなる自分の小ささにも絶望した。私は旅行が終わってすぐ店長にバイトを辞めるメールを送り、関係を切った。
その後私は相当ルッキズムに囚われ、拗らせた学生生活を送ることになった。

友人を失うことよりも、これ以上傷つきたくないことを優先してしまう自分がキモくて嫌いだ。だから家族以外の人に対して、強い感情を持つのが怖いんだと思う。
私の周りには魅力的な人が沢山いる。けれど、私はそれが眩しくて、取り繕った自分を演じてしまう。素の自分は、もっと意地汚くて、フラストレーションが溜まっている。本当はマウントをとって自分を保持するような嫌な人間なのだ。

人と関わる時この人と一緒にいる自分が好きかどうかが重要になるけれど、好きな自分でいたいがために取り繕いすぎて心が疲弊するんだと感じる。それは自己肯定感の低さが原因であり、私は私を認められていないから、人と比べてしまい上手に関係性を保つことができない。
言い換えると、他者への評価で自分の存在価値を補填している、とも言える。だからこそ、自分が女性であるだけで喜んでもらえるから男性と関わる方が自己肯定感を保持できるんだと思うし、そう考える自分は時代に反していてゲボだと思う。

結局他人に依存した評価基準で自分の価値を定めるな、と言うことなのだと思う。
自分で自分のご機嫌をとれる人間だけが多数の人と健康的な関係を築けるんだと感じる。
自己肯定感を高めるには自分の価値を上げることが必要だ。知的欲求を満たすことであったり、健康に気を使う、そう言う自愛の時間をもたなければ私は私でいることに耐えられなくなる。

結局他者といい時間を過ごすには、自分の時間をもつことが必要であると言う結論に至り、人生への時間の足りなさを痛感した。

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