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私が虐待されてた話②

 私は、18歳で児童相談所に保護されるまで、家庭内で精神的、肉体的に虐待を受けていた。家族は父と母、私より5歳下の妹、5歳下の弟、そしておばあちゃん(ママのお母さん)と暮らしていた。18歳の当時、私は高校三年生、妹は中学一年生、弟は小学五年生だった。ママは私が物心ついたときから解離性人格障害で、その発作の恐ろしさから家族全員がマインドコントロールされていた。こんなに貧乏なのも、暴力を振るわれるのも、苦しむのも全部自分たちが悪いんだと。何時間も正座させられ、夜は眠れない日が多かった。ママに逆らうと、ママの発作が出て、人格が変わって暴れてしまうから従うしかなかった。従わずに逃げようとすると、どこまでもママの気が済むまで追いかけてくる。誰かひとりが逃げたら、他の子たちが犠牲になる。だから誰も逃げられなかった。でも、ママは看護師で収入も安定していて、一見すれは普通の人だったから、周りの人間は気づかなかった。異常者だって。そのうえ戸建てで6人暮らしという閉鎖的な環境だったから、私自身もそれが当たり前なんだと思って暮らしてきた。
このノートは、私自身のリハビリも兼ねて書き記す。

4.5歳だった私は、ばあちゃんに電話をかける。ママは背を向けてテレビを見ながら寝ている。

ばあちゃんはママの母親で、当時ばあちゃんは近くのところに住んでいた。

なんでこんなことになってしまったんやろ。なんでこんなことをしてしまったんやろ。なんでばあちゃんを呼ばなあかんぐらいのことを私はしてしまったんやろ。

小さかった私はそんなことで頭がいっぱいだった。

ばあちゃんに電話をかける。

「ばあちゃん、あのな、あのな。らぶちゃん(自分)が、お片付けせんくてな・・・それでな」

震える声で、泣きそうなのを我慢しながら電話をかけていた。

ママは遠くで「違うだろうが!!何回言っても片づけせんかったんやろうが!!ちゃんとばあちゃんに言い直せ!!」

こうやってママの怒号が飛んでくるから、いつまた殴られるのかわからないから、電話1つかけるにしても怖かった。それどころか、この家で身動きをすることさえ怖かった。何をされるかわからなかったからだ。

「ばあちゃん、らぶちゃん(自分)がママが何回言っても片づけができひんくてな・・・それでな、ママに・・・」

限界に達したママが、ドンドンと音を立てながら固定電話から電話をかける私のほうに向かってくる。私は、すごい剣幕と力でママに電話を取り上げられる。

ママは私の電話を奪い取って「あんな、らぶちゃんがな、~~して、それでな、~~になって・・・」

ママがばあちゃんに私の悪行の一つ一つを私の前で話す。

当たり前の話やけど、4.5歳の子がお片付けできひんのは当たり前やろって今は思うけど。私はこの後、大学生になるまでずっと自己嫌悪に苦しめられ、自分を追い詰める癖をつけたまま成長する。「自分が悪いんだ」ということでいつも頭がいっぱいになる。でも今思えば、こんな風に「晒し刑」のように子どものできなかったことを他人に広め、晒上げることが日常的に行われていたことが原因だった。

ママはばあちゃんとの電話を切ったあと私に「なんでこんなこともできひんの!!自分が悪いんやろ!!電話代を無駄にするつもりか!!」

そう言って、また怒鳴られる。怖くて、ごめんなさいさえもう出なかった。

ママは「ばあちゃん30分ぐらいで来るって」

ここからようやく、ママと私だけの地獄から、私は殺されない程度の地獄が始まる。

それだけでも私にとっては十分だった。今日自分は死ぬんだ。明日からこんな自分は居ないものとして扱われるんだと思っていたが、ばあちゃんが来てくれることで「最低限、明日も私は生きられる」からだ。

本当に、ママと私だけの環境で振るわれる暴力と暴言だけは辛かった。暴力はとにかく怖くて仕方がなかったが、言葉もひどかった。「お前が悪いから、明日から保育園にいけない」「明日から、お前は何にもできない。」「これからの未来はない」「家の外に捨てる。お前の物もすべて捨てる」そして、最後には「お前が全部悪い」だったからだ。私は、まだ子どもでその言葉のすべてに絶望し、怯えた。この時の「全部お前が悪い」と考える癖のせいで、私はこの後死ぬほど苦しむことになった。

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