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適正な自分へと収束していく

いま思うとなぜそんなに苦手意識があったのか不思議なぐらいに、ここ数年まで私は子供が苦手だった。

この年齢になってからは、周りの人が出産し、「かわいいでしょう」と言って子どもを見せてくれるのも、子育てはすごく大変なんだろうけど単純にすごくかわいいな思えるし、癇癪を起す子どもを見ても「子どもだから仕方ないよね」という感情に落ち着ける。多分これが普通の子供に対する反応なのだろう。


3年ぐらい前までは、親しい人が子どもの話をしているのも耐えられなかったというか、耐えられないのは無くなってきていたとしても、常にしんどいなという感情は付きまとっていた。

いま冷静になって考えると、私は子供の話を聞くと常に自分と重ねていたのだと思う。物心ついたときからずっとそうだった。癇癪を起す子どもを見ては「なぜあの子はあんなに大人の言うことが聞けないのだろう。私だったら、もっといい子でいるのに」と感じていた。もっといい子でいる私を認めて、あんな子よりも優遇してという満たされない欲求だった。

自分に重ねないにしろ、母親がひどい人だったから、私は5歳ぐらいから妹と弟の面倒を見なくてはいけない人生だった。三歳ぐらいまでは子供って本当にかわいいのだけれど(もちろん夜泣き等で辛い思いをすることはある)、そこからは自我の芽生えと共に夜泣きが無くなった代わりのいやいや期がはじまるのを知っている。私はそれを二度も経験したから、子育てというものは本当に辛く険しい道だということを、もう思春期には悟っていた。


世の母親や父親という生き物は本当にすごいと思う。街で歩くお母さんがベビーカーを押しながら、メイクとヘアセットをしっかりとしているだけで、友達とあのお母さんはすごいねって言い合ったりする。


25歳になって自分が人間的に成長したことを、最近すごくひしひしと実感している。

まず初めに他人に謝れるようになったこと、自分が精神的に辛いときに周りにそれをピーピーギャーギャーと騒がずに、ある程度は寝て忘れられるようになったこと、子どもを自分と重ねずに子供という生き物として接することができるようになったこと、完璧主義ではなくその時の成り行きに身を任せられるようになったこと、他者に優しい声を掛けつつも、自分と他者の境界線を自然と引けるようにもなった。

たくさんいろんなことが、「もし私が虐待を受けていなければ、これが適正な感情の起伏や行動だったんだろうな」というところに収まっていく。私はそれが内心嬉しく、ここにこうやって書き残しているのである。

大人になったねって自分を何度も何度も褒めてあげたい。

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