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雑記「朗らかでない自分とどう付き合うか」

うぐぅと身体をねじり起こしてiPhoneで聴いていないPodcastを流すと、そのまま続く微睡に聴き慣れたパーソナリティの声がぬるっと混ざり込む。これまで見ていた夢の続きに写されて、旧友や輪郭だけの登場人物に代わる代わるそれは化けていく。夢で俺はなんと答えていたんだろう。返答を待たずに会話は進んでいく、自分自身の意識のはずなのに。主体が不在でも夢は続き、断片的な記憶は残る。

推敲していると基本的に文章を書く時、暗い、かなり。もしくは逆説的に暗い気分の時に文章を書いている、その節はある。おかげで普段朗らかに生活を送れていますけど…。noteをおおっぴろげに紹介しにくい所以がここにあります。
自分の中に思考や方針が溜まり続けるのが苦手で、すぐに人に「こうありたい」、「これにハマってる」、「これに悩んでる」と打ち明けてしまう。ただ人と会話するタイミングと、自分と会話するタイミングは別だ。Talk to myselfの文化は瞑想に近いね。仕事が忙しいと片付ける暇がない。だから敢えて手のかかる文章にする。

「14歳の栞」を観て、「個人」ってエグいなと思った

いま、対人コミュニケーションにおいての『大事にする・される』論について考えている。多分一度は言ったことがある、"それって大事に思われてないんじゃない?"みたいなこと。恋愛間・友人間・仕事相手など全般においてのこと。ある程度結論がついた気がしています。俺は好きな自論発表ドラゴンなのかもしれない。
きっと大事にしたこと(大事にしていたつもりだったこと)も、大事にされたこと(大事にしようとしてもらったこと)もあるのだけど、俺はいつも最後の盤面で好手か悪手かわからない手を指して、かつ投了しているかもしれません。
※投了するという言葉を使ったのは、無意識下で負けていると感じているから?
※コミュニケーションは勝負やクイズではありませんよ?

結論ですが、「大事にする・される」ということは【相手の情報をアップデートすること】だと思います。ここで指すアップデートとは、「いま相手がどう感じていて・考えていて・行動したいか」を受け止めることにあります。なので、不要にイエスマンになること、自分を殺して褒め称えること、などの相手ファーストのコミュニケーションはカスです。それをもしあなたが強いている・強いられているのであれば、あなたはカスなのです。10代・20代はやりたくてやってる場合もあり、結構しょうがない部分もあるんだけど、カスです。
強い言葉を使ったせいでやばい啓発本みたいになってしまいました…やめます。健康的に述べると、「お前ってこうだからさ」みたいな決めつけによる、賞賛・批判は不用意に相手の可能性を狭めてしまう危険性があるということ。逆説的に「あいつこう思ってんだろうな」という諦念・放棄は自分の可能性を狭めてしまう可能性があるということ。
相手を尊重した上で、一種の思考傾向があることを踏まえて、かつ返報することに、本来のコミュニケーションは立っている、としておきます。

ここまで書いて読み返した時、上記の定義と同時に【アップデートした部分を伝えること】も加えるべきなのかな〜と思いました。だってそれで伝わらなかったらもうその関係構築は諦めたほうがよろし。奢るけえ、一杯飲んでき。

思索を捨てよ、森へ出よう

まあ何故こんなに御託を並べているかというと、友人と話している時に、「お前は0:100でコミュニケーションを取っているのではないか?」という指摘があり、100の時に過度に介入してしまうことが、根本の親しいコミュニケーションが下手な理由だとされました。まあ、確かに……。多分“ぐぬぬ“って言ってた、言ってたね。ただここに看過できない『ねじれ』があって、人同士が尊重し合うことはとても好きなんだけど、心から尊重できていたケースってめちゃくちゃ少ないっぽい。役目としての関係性(先輩-後輩とか)を一枚挟んだ方が上手く行きやすい。ただこれは「人間大事にできる他人限られてる論」の話になっちゃうので、一旦置いておきますね。喫緊の課題はコチラでした。関係性の中で、俺は『あるべき〇〇像』が非常に鮮明。

例えば、
・彼氏の気のいい友達像
・異性だけど気にせず話せる男友達像
・フレンドリーな恋人像
・部活のおふざけ後輩像
とか。

勿論全くの嘘でもないし、人間が多面的なことは周知の事実なので問題ないっちゃないんですが、強すぎる。端的に言うと人の目気にしすぎちゃってる。みんな思春期で終えると噂のやつ、まだまだ続けちゃってる。
これですね。こじらせ若年男性であることはもう認めていかなければ前に進めない。ただ、いつも上記の像を掲げているわけではなく、ひたすらに居心地がいい人と関係を続けているし、離れていても連絡を取っていたり、連絡を取っていなくても勝手に友達だと思い続けている人もいます。

これは下北沢のむっちゃええお店、「つむじ風」

元からそういったあるべき姿への固執が強かったのに加えて、大学4年生の時に、周囲の男性に対して感じていた違和は「ホモソーシャル」「トキシック・マスキュリニティ」「マチズモ」や「ミソジニー」という定義で形容できた、ということに気づいてから、かなり事象が加速した気がする。ただ、知る前の言動、知った後も同様に、そういった類のふるまいをしてしまっている事実もある。チョロQをギリギリまで引っ張って離した瞬間。どうふるまう(まあ、ふるまうって思ってた時点でヤバくて)べきかのブレーキが機能しなくなった時期がある。分かってやることが一番タチが悪いのに。以前観た映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」の中で、“紳士に限って一番タチが悪かったりする"という台詞があって、ギクリとした。フェミニズムは男性をこき下ろすためのものでも、男性同士で他の男性に対して優位性を図るものでもない。出来ていないのにも関わらず、うんうん、と頷きながら聞いてくれた各所の皆様には、心から感謝している。

そこからの数年で、上記のような思想は押し留めて、もう生まれ持っての権威・暴力・加害性を、過度に考えることはやめている。なんなら嫌厭していた男社会に迎合しながら生きている自覚もある。それは、ここで書き連ねていることも含めてスノッブ(エセ紳士)的だし、生きていればどうしたって誰かを傷つけてしまうという若干の諦めもあり、かつ自分の言動を縛りつけることが幸福かという観点に立っているから。でももう知らないフリはできず、インポスター症候群の比率に性差があるなよな…とか考えてる日もある。俺は基本的に自分の意見を通したい側+功利主義者という思考癖を持っているので、かなり男性的なのですが…。
文章を見て分かるけどまだまだ揺らぎが強い。でも考えながら生きてかないと自分に責任を負えない。←こういうところ自分でもヒェッ…と思うし、それが創作に出てると思う。

かなり面白い本

大学時代に書いた脚本の中で、初対面の男女4人が口論するシーンがあって、その中で急に“恋人のことお前って呼ぶのどうなんですか?“って口論に冷や水ならぬガソリンをぶっかけるような台詞を入れたけど、かなり自分のスタンスが出てるかもしれない。書いた時は所謂痴話喧嘩のあるあるとして消費した側面があったけど、白熱した口論の中に入ったこの台詞を通して、"みんなはどうしたい?"って一旦考えて欲しかったんだと思う。社会的な理想像・成功規範がパターン化して、関係性消費に慣れすぎた社会でみんなはどう誰かと生きていくの?という意味(恋人・配偶者に限らずね)。俺は知っている人たちが幸せなら正直どう生きてたって構わないし、心の底からなんでもいいんだけど、そこに誰かが口を挟むなら全力で闘っていいと思う。誰かの理想を押し付けられずに、理想に沿おうとしすぎずに、どう生きるかは自分で決めたい。だって最初も言ったけど、主体が不在でも夢は続き、断片的な記憶は残るから。それは恐ろしいけど、豊かさを含んでる。

最近聴いている曲は

・「きずかないまま」さよならポエジー

・「透明」Laura day lomance

・「Amber」さらさ

です。それでは。

画像:西荻窪「オーケストラ」のスパイスガッツリ本格的チャイ

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