鈴木光司の小説「エッジ」を読んで

「エッジ」上・下巻(2008)鈴木光司

映画「仄暗い水の底から」は好きで何度も観ている。あの映画に色があるとしたら「洗っていない水槽に浮かぶ藻の緑」だと思う。どろっとした雰囲気で、6月、7月初旬頃に観たくなる。その原作者、鈴木光司の小説は「リング」も含めて読んだことがなかった。読むきっかけになったのは「シャーリイ・ジャクスン賞」である。この作品が長編部門の賞をとっていた。これは読むしかないと思った次第である。

上巻はさらっと読んでしまった。重たい文体かと思いきや、さっぱりしていた。上巻、裏表紙の裏に「著者からのコメント」があった。

「本書で、長年解き明かしたいと願い続けた世界の仕組みについてのいくつかのヒントを提示できたのではないかと自負している」

裏表紙の裏(それってどこ)

主人公の父は主人公「冴子」に、幼少の頃から物理や化学の知識を交えながら、宇宙や人類など小難しいことを教えている。こんな父親がいたら面白いと思った。一方で若い頃は他に興味の対象が多過ぎて、勉強に興味が持てず集中できなかったことを思い出すと、そんな父親は鬱陶しいだけかとも思う。電子だの中性子だの聞いたのは高校以来だが、年をとって改めて聞くと非常に興味深い。原子の中身は空っぽなのになぜ物質は通り抜けずに存在するのか。読み進めながら、ネットで色々と検索してしまった。

世界の仕組みについて私は知りたい。なぜなら、私は現在「社会に立ち向かう能力」が足りていないと思うからだ。会社員として働いていて、人や社会に対して狼狽えることばかりである。だからこそ、冴子の父が冴子にした教育は(実際に効果的かは不明だが)私には納得できた。そう感じるのは、ビッグバンやらカンブリア爆発について考えている時、「今日職場で起きた煩わしいこと」は遠くに行ってしまうからだろう。

私が一番惹かれたのは、冴子が父と藤村孝太を鏡像体、物質と反物質の関係と捉えた部分。物質と反物質が出会うと対消滅を起こして物凄いエネルギーが発生するらしいが。

私にも私の鏡像体だと思う人(Aとする)がいる。Aに頭を悩ます毎日。Aは実に過去の私に似ている。Aは私と同じ年齢・性別で言動が酷似している。かつての傲慢で幼稚な自分をそのまま見せつけられているようだ。だからしょうがないよね〜とはならないもの。Aに対して腹は立つし疲弊、消耗する。怒りが増してくると、かつて自分がそんな振る舞いをしていたことがすっかり抜け落ちてしまう。私は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな思いをしなければならないのか!と全くの被害者意識に飲み込まれる。

私は「はっきり言いたいことを言えるタイプなんで」と人に凄んでしまう痛い人間だった。Aに耐えられない今の私のように、私に耐えられない同僚もいた。私の態度を報告して問題にされた時には、私は「仕事もできないポンコツが何言ってるんだか」と言ったし、それが本心だった。その癖、私は一丁前に傷ついていて、被害者の気分だった。その時の私には理解できなかったのだ。Aは私が過去に言った台詞をそっくりそのまま私に言い凄んでくる。

その後、職場が変わり新たに出会った人たちの影響で、自分がみっともなく感じて態度を改めようと思った。もし死ぬ時に自分のリザルト画面がゲームのように出てくるとしたら、私の項目には「人を威圧して物事を解決した回数」や「機嫌のコントロールができずに人に八つ当たりした回数」が並ぶだろう。それほど惨めで悲しいことはない。引き返すなら早いほうがいいと思った。

そして私は心を入れ替えて、happily ever after となるかと思いきや、そうはいかないものである。因果律がやってきた。

「忘れたのか、これまで、数字で表れたサインが偶然であったためしはない。偶然の一致には必ず意味があった」

下巻

もしかして、これが因果応報というやつなのではと最近思い始めている。過去に自分がしたことは、良いことでも悪いことでも返ってくる。私が酷い振る舞いをしていたのはしばらく前なので、Aはそのことについて知らない。なのでAから直接の仕返しをされているというわけではない。私にはAとの出会いが必然のように思えてならない。私が後悔、反省を経て、突然きれいな人間になろうとしても許してもらえなかった。何かがAを私の元に連れてきたのか、それとも私がAの元に向かうように仕組まれていたのか。

話は逸れるが、因果律がオカルト的要素でないとするなら、「今の私、現在の私にも問題が残っている」ということになる。加藤諦三が「自分の無意識が人間関係を表す」と言っていた。要は自分の無意識に問題があれば、今の人間関係が上手くいかない。私はきれいになったつもりなだけなのか?無意識の部分では何も変わっていないのか。またまた話は逸れるが、今の世の中「過去のツケを払わす映画」が流行っている気がする。「プロミシング・ヤング・ウーマン」や「ザ・ギフト」など。

「対立する概念は、遠く離れた果てと果てに、無関係にあるわけじゃねえ。一本のひもで繋がって、互いに助け合い、補い合う関係でもあるんだな。悪魔の由来は知ってるだろう。堕天使」

「神と悪魔が共に相い補い合う関係…」

「出来事と出来事は、蜘蛛の巣のように、ものすごく複雑な糸で結ばれている。世界は関係性でできている。時間が過ぎていくということは、関係性のネットワークが移りゆくことだ」

下巻

「いいか、人間が認識できる現象は、世界のほんの表層部分に過ぎない。災いは常に、身近なところにあって、罠が用意されてる。神と悪魔による契約は、始終行われてきたんだが、秘密がバレないよう手のこんだ細工がなされるわけさ。だから、人間は、幸運と不運を当てはめ、何も気づかずにいる。必然を、あたかも偶然であるように装うのは、ものすごく簡単なことなんだぜ」

下巻

この作品の黒幕はある人物なのだが、その正体が「悪魔なのか?」と問われる場面がある。それは比喩的表現ではなく、文字通りの悪魔。ここ最近、悪魔が登場する映画をよく観ている。「死霊館シリーズ」「ヴァチカンのエクソシスト」など近年でも継続的に公開されているジャンルだと思う。いくつか観ていると悪魔についての設定が共通していて面白い。妙で変に現実感がある。
・悪魔が出てくる時は、部屋が寒くなる
・悪魔が話しかけてきても、取り合ってはいけない
・悪魔は人の罪悪感を利用する
・悪魔を倒すには、悪魔の名前を知る必要がある

悪魔と天使は相い補い合う関係にあり、偶然を装った罠を仕掛けている。出来事と出来事は複雑な糸で結ばれている。私がどれだけ人間関係を断ち切ろうが、職場を変えようが因果律から逃れることはできない。偶然を装ってやってくる。悪魔と天使が契約したために。

冴子は世界にとって、地球にとって重要な人物だった。相転移によって世界が消える。だからワームホールを通って別の世界に逃げる。そんな重要人物を悪魔や天使が大注目して見ているのは理解できる。私とAの出会いを悪魔と天使が馬鹿正直に契約を交わして謀っていたのなら、まさにご苦労である。人間とは別の存在だから、忙しいとかそういう概念もないのだろう。重要な人物だろうが、平々凡々な人間だろうが、分け隔てなく契約を交わしているのだろう。幸運や不幸が誰にとって平等にやってくるように(平等か?)。

父から冴子に向けた最後の言葉。

「おまえが、力を発揮できる場所が、きっとある。自分に与えられた範囲内で最善を尽くす、それがおまえの使命だ」

下巻

これはなかなか唐突で現実的で前向きなものだが、これは筆者の個人的な信条をここへ持ってきたのでは。私が都合よく物事を考えてしまう質だからだろうが、今この本に出会ったのも偶然ではないと少し考えてしまった。Aと私の付き合いの果てには莫大なエネルギーを放つ対消滅を起こすのか。それとも、ただのつまらぬ似た者同士の同族嫌悪なのか。

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