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映画「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」感想②【働かざる者のMy colorとは】

アーネストは運転手の仕事を通じて、モリーと知り合う。最初は相手にされていなかったが、次第に距離が縮まり家に招待される。そこでの会話の中で、モリーは「叔父が怖い?」とアーネストに聞く。モリーはどこまで分かっていたのか。

まだ二人が恋人の関係になる前なので、モリーはアーネスト以外の要素からウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)が怖い人間なのではと勘づいていたのだろう。オセージ族に友人の顔をして入り込む彼の危険性に、彼女だけが気づいていたのか。それともオセージ族もそうとは知りながら、権力者であるウィリアムに利用価値を見出して仲良く振る舞っていただけなのか。だが、一族の人間を殺すような人間と仲良くするだろうか。だからこそ、モリーが個人的にウィリアムの危険性を感じ取っていたのではないかと私は思う。誰とも共有できない思いを、アーネストに話してしまったのではないか。

ウィリアムとアーネストが主従関係にあるのは周知の事実だ。もしモリーがウィリアムが恐ろしい人間と思っていたなら、距離の近いアーネストに心を許すだろうか。金目当てかもしれないのは言うまでもないのだし。もしかしたら、権力者であるウィリアムの傘下に入ることで庇護を得よう、安心したかったのかも…

あの薬

モリーの糖尿病を治すために、ウィリアムが独自のルートで仕入れていたあの薬。モリーがウィリアムを恐れていたなら、あの薬が怪しい、自分を毒殺するためのものかもと気づくのは容易い。だがモリーは医者が注射をすることは拒否したが、薬自体は受け入れていた。あの薬に賭けなければならないほど病状が悪かったのか。ちなみにあの薬が本当にモリーの病気を治すためのものだったのか、それともそれ以外の目的としたものだったのか、劇中では明かされていなかったと思う。

…とこれ以上、考えても答えは出ない。原作を読めば分かるかもしれない。危険な人間に近づいて、攻撃を躱す戦法は現代社会にもあると思う。

金目当て

あの時代のあの場所で、白人男とオセージ族の女が結婚するというのを世間と部族はどう捉えていたのか。白人旦那を持つモリー姉妹同士で、「金目当てなのか、愛されているのか」「うちの旦那は盛んなの」と雑談をしている場面があったが、姉妹の中には病気なのに旦那のせいでちゃんとした治療を受けていない人もいた訳で。どういう雰囲気なのか良く理解できなかった。部族としては金目当ての白人の元に部族の女性を嫁がせることは嫌ではなかったのか。男たちは黙って見ていただけか。オセージ族の女性たちは警戒しなかったのか(不審死も続いていたのに)。もしかして、オセージ族の女性からしたら白人の旦那を持つことがステータスだったのか(日本人にもそういう風潮は必ずある)。一概には言えないとは思うが、私は映画内でそういう背景が知れたらより楽しめたと思う。

一方で、白人側からの部族に対しての偏見は、そこまで描かれていなかった印象。モリーの家で白人が給仕していることに文句を言い、「savage」と揶揄していた。あとはアーネストがモリーの手を触りながら「この色は何色って言うんだ」と聞きモリーは「My color」と言っていた。現代社会ではそんなことを聞いたら、人種差別と言われてしまいそうだが。

金目当てに未だ嫌悪感があるのは変わらないが、私も「金目当てなんて汚い」と拒否反応を起こす年齢でもない。世の中は0か100でできているわけではない。私が若かった頃、新入社員の女の子が30歳前後の中堅男とできて結婚をする様を何度も見てきた。やはりお金や地位があるのは、将来を考える上で重要な判断材料であるし、女性としては人生という大海原を航海するなら、でかくて安全な船に乗りたいと思うのが本望だろう。それに加えてロマンスがゼロという訳でも当然ない。モリーもアーネストも双方が金とラブロマンスを天秤にかけながら、不安定な恋を楽しんでいたのでは?

働かざるもののMy color

アーネストが棺の代金が高いと葬儀屋と口論になる場面で「オセージ族は働かないけれど、俺は働いている」と葬儀屋がボッタクリの正当性を訴えていた。確かにモリーもアナも仕事をしているようには見えなかった。働くことが全てではないけれど、「私の色」と言っていたモリーの人間の良さ、モリーの色がこの映画を通じて分からなかった。

私の日々の悩みの種といえば、大体が職場で起こることであり、だからこそ働いていないものに対しては、感情移入できないのである。会社勤めをしているのが当然なんて考え方はここ最近の話なのだろう。ひと昔前までは戦争もあったわけだし。殺し合いをしている時代に、労働をするものは立派だなんて考え方はないだろうし。また100年後には、「毎日同じ場所に行って、同じ作業を繰り返しすることが美徳とされていた時代があったんだな」なんて笑われているかもしれない。

幸か不幸かオイルマネーの権利を得てしまい、渦中に巻き込まれて…という意味では被害者であり、悲劇のヒロインなのだが。この映画を夫婦の絆の物語と捉えるとしても、なぜモリーがアーネストにそこまで惚れ込んだのかも私にはしっくりこなかった。私の理解力不足なのかもしれないが、この映画を楽しめなかったのは、登場人物の人間の良さ、感情の動きが私に合わなかったから。

オイルマネーの権利を持っているオセージ族、それとあの時代、あの場所に居合わせた人たち全員が不幸なのだと思う。強盗して得た金で賭博をして、遺体から宝石を盗んだりするのが当たり前。自分がやらなければ損な気がしてくる。倫理のハードルが下がってくる。だからこそ、気の毒だと思う。ああいう状況下で自制して、清く正しく生きるのはとても難しい。

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