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陰キャにも陽キャにもなれなかったわたしへ

今でもこのことを受け入れるのは難しいけれど、学生の頃から自分は少し変わった生徒だったと思う。

ゆる言語学ラジオの堀元さんが「陰キャは文化祭のノリが嫌い」と話していて、会場の多くの人が頷く中、わたしはその時初めて陰キャと呼ばれる人たちが、文化祭のノリが嫌いであるという事実が多くの人の間で共有された常識であることを知った。

だからといってわたしは決して文化祭や体育祭で中心になって騒ぐタイプでもなかった。

クラスの大半の人間が文化祭で騒ぐかそのノリを毛嫌いしている中、クラスの斜め後ろくらいの席で模擬店のアイスクリームと、自分が軽音楽部で演奏する曲のギターソロのことを考えているような生徒だった。

学校の規則は嫌いだったけれど、文化祭も体育祭も楽しかったし、自分がクラスの中で陰キャなのか陽キャなのか考えたこともなかった。

しかし、大学、大学院、社会人となるにつれて世の中の人たちが自分が陽キャか陰キャかを認識して生きていることに気づく(特に後者の意識の方が強いと思う)。

そしてそれと同時に文化祭の時にアイスクリームとギターのことを考えているような人間は、理の外なのだと気づく。

自分を陰キャと自認する人は自分のことを卑下している人が多い(と感じる)が、わたしはそのコミュニティにすら入れない。

強がりでも何でもなく、わたしは好き好んで教室の斜め後ろの席で本を読んだり勉強したりしていた。でも最前の席も授業中先生にすぐ質問できるから好きだった。そして読書や勉強と同じくらい友達とおしゃべりして大声で笑うのも好きだった。

でも今となってはこれがわたしの世の中での生きづらさの正体なのね、とも思う。

前に場の空気の読み方が見当はずれな時があると指摘されたことがある。発達障害なども疑ったけれど、診断は出なかった。空気の読み方というより自分のキャラクターの自認が周りと違うということに気づかなかったことからきているのではないかと思う。

自分で自分を分類するなという曲が流行っていて、そういう価値観が求められている側面もあるのかもしれない。

だけれども、自分で自分を分類できなかったわたしは集団の中で居場所が見つからず、どう振る舞えばいいのかいまだに苦戦している。

今はただ、文化祭の時に食べたいアイスクリームの味を一緒に考えてくれる人を一生懸命大切にしながら、この苦しみをしのいでいくしかないのだろうか。


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