見出し画像

裏芸祭に行ってきた。

10:30くらいに着いた。そのときは電気がついていなかったが、展示作家の友達と来ていたから、普通に入った。その友達は在廊しにきていたが、アトリエのオープン時間を知らなかった。でも、とりあえず入った。

間取り

入ってすぐのところに紙が置いてあって、よく読まずに写真だけ取っておいた。結局いまもよく見ずにこの画像を張り付けているから、作品の位置とキャプションが書いてあるんだろうなくらいの認識しかない。

とりあえず一周してから、アトリエでスマホのカードゲームをしていた。11時くらいになると、もう一人の展示作家が来た。その人は一緒に来た友達と高校で同じクラスだったらしい。その人は大量に絵を持ってきて、新たに配置していた。いろんな部屋に。あの間取りはきっと壊すための枠組みだったんだろうと思った。そして、いま思えば写真撮ってよかったのか確認してなかったけど、こういうゆるい雰囲気とTwitterで写真見たなーっていう記憶が、私をまぁいいかという気持ちにさせた。現代の鑑賞はスマホやインターネットに強く依存している。インターネットで展示の情報を得て、グーグルマップで目的地に向かう。美術館やギャラリーに入れば、まず最初に写真OK、あるいは写真禁止のマークを探す。写真OKなら写真を撮って、べつに後で見返すわけでもないのに、ここで全て見きれなくてもいいやと安堵する。でも今日はいつもと違った。

グーグルマップではなく、六丁目9-8という住所をたよりに、電信柱や人の家の表札を見て、この場所を探してきた。写真のマークではなく、この空間に充満するゆるい雰囲気から感じ取って写真を撮ってもいいことにした。そこには不思議な身体性があった。しかし、身体性というよりはもっと人っぽさがあって、サイトスペシフィックというよりは、もっと知り得ない内面性を含んでいる。きっと他人のようなものだ。

ホワイトキューブと家を足して2で割ったものの上に絵が飾られている

家とホワイトキューブが生成変化のブロックを形成している。家は家のようなホワイトキューブに、ホワイトキューブはホワイトキューブのような家によって歪められ、そのような一連の生成変化がまとまりとして、ひとつのブロックとして立ち現れる。作品は常に流動的で、壁から落ちてきたり、配置が変わったり、新しく持ち込まれたりしながら既存の枠を越えて、物質として内在している。

お腹がすいたから買い出しに行こうとして、玄関に向かうと、クモがいた。

生きているクモ

友達によると、クモとポモは似ているらしい。
お腹のすきは、鑑賞者の身体性を対象化する。それはきっとこの空間性によるものだ。この空間はホワイトキューブでも家でもない、生成変化のブロックである。鑑賞者もこの場所ではその超越的な観察者としての視点を維持することはできない。自らの身体が、作品として、空間として、周りのそれらと同列に立ち現れる。そんなことを考えていると眠くなってきた。

眠いといえば、私はこの前CSラボで開催されたステラークのトークイベントに徹夜で参加し、開始直後から椅子から崩れ落ちて爆睡した。だから内容は覚えてないのだが、裏芸祭とステラークは眠気によって繋がっている。たしか、ステラークの左腕の肘のあたりに第三の耳がついていた。第三の耳はステラークの身体に内在しながら自らの声を聞くのだろう。それは外部からの侵入者として、あるいは取り込まれ、晒される身体性として。そういえばステラークのときもCSラボは暗かった。暗い空間と他者への気遣いと眠けによる身体性の対象化、そして内在。わたしは今、この生成変化する身体に埋め込まれた第三の耳なのかもしれない。

私はいまアトリエのソファでこのnoteを書いているが、隣にドローイングしている人がいる。人と言っても、それはさっきから登場している友達のことなのだが、ここでは人といいたくなる。私がこの人と出会ったのは東京造形大学の絵画専攻という同じクラスに所属していたからで、むこうでずっと絵画の配置を変えてうろうろしているもう一人の展示作家は、この人の過去のクラスメイトであった。しかし、ここに単線的な時間の流れは感じない。あるクラスから別のクラスへ、友達から友達の友達へ、そのような単線性ではなく、もっとクモの糸のようにクラスとクラスのあいだで糸を絡ませ、張り巡らせ、その中を動き回る。そういう関係性がここにはある。

一つ、この空間の中で印象に残っている作品を取り上げる。

死体かと思ったもの
モノとポモは似ているらしい

この写真は部屋に入ってすぐ、ドアのあった場所というか、部屋と部屋の間から撮っているのだが、ようは、この作品はこの部屋に入った瞬間にこの画角で、この光をこの角度から浴びながら現象する。この作品だけは、この空間をまるで展示空間的な展示空間のようにしてしまっている。この作品が、死体のように、空虚な空間に佇むことで、この空間の歴史や歪み、文脈が主題化される。友達はポモと似ているものを2つあげていた。それはクモとモノだ。しかし、きっとそれは似て非なるものである。クモもモノも、この空間に特殊なコンテクストを付与するという点では似ているが、その性質はまったく逆のものだ。モノはこの空間の歴史を記述するように定義していくが、クモはここを使う人の人間性から歴史を生成するものを記述する。

いつの間にか電気がついて、参加できない会話がちがう部屋から聞こえてくる。内在するものはその運命を受け入れなければならない。コミュ障は静かにスマホのカードゲームをやるしかない。しばらくすると、知らない展示作家が差し入れを持ってきた(わたしはパフォーマンス・アートだと思った)。友達はスーパーのビニール袋を漁って、面白い味のものしかないといってから、歌舞伎揚を食べた。わたしも食べた。

近くの高校の文化祭の軽音部の演奏が聞こえてくる。これは裏芸祭ではないと思う。もっとイーゼル感覚で、クモとかモノとかそういうものを見ながら、お腹を空かせたり、眠くなったりする場所で、祭りの要素なんてどこにもない。どちらかというと芸祭裏だ。ここでの鑑賞はカードゲームのようだった。観察によって手札を増やし、相手の盤面によって、対策を練ってひたすら攻める(わたしは専らアグロなのだ)。しかしここでのゲームはルールがもっとゆるくて、しかも破壊可能だ。盤を構成するものはなにもない(それはあの間取りですら)、ただそこには対戦者だけがいて、先を読み合う中で他者と出会い、他者から他者へと相手がめまぐるしく入れ替わり、そこにはクモの糸のような関係図が絡まりあって、互いに互いを変化させながら生成変化する。電気のついていない暗いアトリエの中で、身体の並行世界に内在するわたしは第三の耳として、わたしの声を記述する。友達が面白い味のものしかないといっていたものを食べてみる。ポモ、愛はこれ。

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