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ザムザム星に行ってきたンゴ

大学で何人かに感想を聞かれることを予想し、予めここに記す。
しかし、この展示についてはTwitterで、有名なアーティストや批評家、美術関係者の方々が感想なり批判なりを呟いているので、そっちを読んだ方がおもしろいと思う。私は単に考えることが好きなだけで、批評や美術の知識は全然ないということと、ザムザはキュレーション展なので個々の作品については深く言及しないということも予め断っておく。

惑星ザムザ

 惑星ザムザとは製本工場跡地で開催された、布施琳太郎によるキュレーション展である。ステートメントを要約すると、だいたい「解釈以前のマテリアルがどんな解釈にも安定することなく生命活動を開始することを観測したい。ザムザはカフカの『変身』における主人公の名前で、布地の販売員だった主人公の変身と糸が布地(テキスタイルはテキストの語源)に変身することをかけている。糸という物質が布というテキストに成り損ないつつ何かしらに変身したものから何が読めるだろうか。」的なことが書かれている。製本工場跡地での展示というサイトスペシフィックな文脈のもと、解釈という書物的なものから逸脱する物質の観測というテーマが掲げられている。

無意識の系譜

 テーマ自体はクールベ《傷ついた男》からシュルレアリスムへの流れの中で言われる無意識的な、あるいはプリミティブな状態における身体の物質性の表出を扱っているように思われる。糸が糸として、かつ布地に成り損ねつつ何かしらに変身するにはどうするべきかという問題系の中で、惑星ザムザは1つの回答を提示する。キュレーションにおける作品や物が糸であるならば、作品や工場跡という糸がキュレーションの網目から抜け出すように(むしろ意図的にそのようなキュレーションをしているのだが)個性を発し、かつ相互に影響を与えている。そこから出力される惑星ザムザはキュレーションという布地、テキスト、解釈に成り損ねつつ1つの現象として変身をとげた無意識的な何かしらであると。

キュレーションの政治学

 ただし、そこから読み取れるのは隠蔽された権力でしかない。糸が糸であるためのキュレーションの放棄というキュレーションによって、隠蔽された権力がすべての糸を統治し、惑星ザムザという頑丈な布地を織り上げている。作品にはマテリアルとして自由であれという規制、それは自由であろうとすれば規制に従うことになり、規制に従おうとすれば自由ではなくなるという不可能な制約を押し付けられることであり、糸は個を保てず、分裂してしまう。分裂した糸は自らを固定することができずに永久回帰へ向かって絡まり合い、惑星ザムザという孤独で醜い天体を構成し、回転させる。そして、絡まり合って惑星を覆う糸自身によってこの惑星の中心部は隠蔽されるのである。

ザムザの問題提起

 さらに、ステートメントは語りかける。私たちの目的は観測であり、この天体は単なるマテリアルでしかないと。物理主義的な視点が要請され、隠蔽された権力に気づいていながらまるで中立的な立場に追いやられ、中立であることの残虐性と純粋に中立であることの不可能性が思い知らされる。今、私たちはこの天体への視点を変革するためにステートメントからの解放を目指し、自主的な解釈における責任を請け負うための熟慮の必要性が問われているのだ。

なんか…うん…

 書いてみたけど我ながら切れ味が全くない。自分の文章を上手いと思ったことも特にないが、こんなにクソだと思ったこともない。ザムザは自分の手に余る展示会だったのだろう。これから美術の知識と批評力(ぢから)をもっとつけていけるよう精進したい。

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