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外部向け:反ラボの教育における意義

反ラボはラボに反旗を翻し、打倒ラボを掲げる組織ではない。反ラボはラボに補えない反対側の教育における役割を担う組織だ。

反ラボが担うべき役割

(要約)
昨今の世界は清貧の思想に傾いている。しかし、エッセンシャルな部分だけでは社会は成り立たない。政治における観光客が戦争の抑止力になり、トークイベントにおける飲み会が客層の拡張や売り上げの向上、新たなコミュニケーションの創造につながる。ネトフリのような目的ー応答型ではなくツタヤのようなたくさんの知らないものに出会えるオフライン空間が必要。

https://digthetea.com/2022/05/hiroki_azuma_1/ 

東浩紀はこの記事で、ゲンロンにおける飲み会のようなノンエッセンシャルなものの重要性を説いているが、オフライン空間であり、なんの目的もなく学生がたむろする人間ツタヤとしてのCSラボが担っているのはこのノンエッセンシャルな側面である。ラボでは創造的な活動や議論がないではないが、たまたま目に入った左藤青さんのツイートを引用するが、一般論がぐるぐる回ってネットで出てくるような話以上の結論は出てこない。

https://twitter.com/satodex/status/1530147785676574720?s=20&t=0QyxJEXe6t13JiTSfPr-9g 

ようはインプットなしにアウトプットはあり得ないということで、反ラボが担うのはこのエッセンシャルな部分、「特定のテーマについてアプローチの仕方が異なる個々人」を育成する側面だ。大学でも選択すれば座学を受講することができるが、今まで予備校や美術系高校で美大受験用のマインドをしこまれた学生たちが現代美術における座学の重要性に気づくことは難しい。このような問題意識から反ラボでは美大受験産業の構造を歴史から紐解く勉強会も開催予定なのだが、とにかく大学にしろラボにしろ待ちの姿勢は教育における責任の放棄であって自己責任論への逃避であると主張したい。というか待ちの姿勢こそネトフリ的な目的と応答が一直線に繋がったエッセンシャルなものである。大学とラボがともに主体性や自由を標榜するのは偶然ではない。ここで言われる主体性や自由は教育における根源的な暴力性と責任を放棄し隠蔽するための虚構でしかないのだ。

反ラボの活動実態

では反ラボで具体的になにが行われているかというと、基本的には論文の提出である。研修生とメンバーの2つの役職があり、研修生はいわゆる見る専で、ディスコ―ドの発言権を与えられていない。論文を提出することでメンバーになることができ、ディスコ―ドでの発言が可能になる。論文の提出はインプットが前提条件になるため、教育的な効果を持つし、先行研究を踏まえた新説の提示を通してその分野においては第一人者になることができるため、凡庸な一般論がぐるぐる回るような議論が発生しない。また、メンバーになりたい研修生がメンバーの論文を参考にすれば、そこで知識が循環するというシステムになっている。メンバーに向けては管理人不在のネット空間におけるCSラボとして機能する。オンライン空間においては、オフライン空間で消失してしまう会話の記録がログとして残るため、通時的にノンエッセンシャル性を保つことができる。

反ラボの理念

とはいえ、反ラボに完成はあり得ない。つねに自己の構造を批判的に考察し、改良し続けるのが反ラボである。ただし結論を先延ばしすることで主張を隠蔽したり、結論を相対化するようなことはしない、それは責任の放棄、自己責任論への逃避なので。反ラボは間違えている。それを認めることが共同体の責任を、教育における暴力を引き受けるということである。しかし構造を棚に上げた内容だけの批判なら大学教授でもできる。大学批判やラボ批判をするなら、それを発言する立場としての構造への批判的な考察と実践が伴っていなければ空虚だ。だからこそ反ラボは結論することを恐れず、間違うことを認め、自己批判を通して変容し続ける。そうすることで大学やラボにおける構造へのエポケー(思考停止)としての共同体の責任や教育における暴力の隠蔽が表面化され、真の大学、ラボ批判が可能となるのだ。

三木修作君について

これは応答できる運動じゃないのだが、それだとエッセンシャルすぎるので応答しておく。ではなぜ応答できないかだが、

現在の私は反ラボに所属しているものの、先のツイートは、反ラボとラボの溝をより深めるばかりで、本来の反ラボの主旨(あるべき姿のラボを取り戻す)とはまったく矛盾するだろう。しかし、他者性に配慮するという反ラボの持つ別の側面は、これゆえ私のようなanti-反ラボ的なツイートをする者を排除できないというジレンマを抱えている。

https://note.com/mikishusaku/n/n613946c10623 

ようするに三木君は反ラボが他者性を配慮するばっかりに他者性を排除する他者まで受け入れていまうということを批判している。反ラボが配慮する他者性というのは存在の根源において排除されたもののことであり、具体的には共同体の活動における構造へのエポケーなわけだが、三木君の批判は反ラボの構造的な欠陥を炙り出すことによって、反ラボの構造へのエポケーを批判している。ようするに三木君がやったことは反ラボ参加者が反ラボの構造的欠陥を認め、自己批判するというお手本のような反ラボ活動なのだ。三木君が反ラボの構造的欠陥である”他者性を排除する他者”を代表しながら反ラボの活動にぴったり収まってくれたことで、反ラボの構造的欠陥は解消されてしまった。ありがとう三木君。

ということでとくに応答する必要がないのだ。指摘された問題は、その指摘によって解消したのだから応答のしようがない。「アンチ反ラボ」や、「ラボ/反ラボ対立のメタ認知」、「ヴィラン」のような言葉を使って懸命に非反ラボ的な立場からの批判を演出しているが、もはや無理な話だ。どこにも問題がないのに批判はできない。三木君の言う「矛盾」や「ジレンマ」は反ラボが抱えているものではなく、この無理な話をしようとしたがために生じた三木君の矛盾でありジレンマだ。

反ラボ現象は、ラボ / 反ラボが存続する限り、なくならないだろう。名前の持つ構造的な欠陥。それは外部からも指摘されている通りだ。だからと言って名前を変えるべきかといえば、私は、まだラボに変革を何も生んでいない現状を鑑みて、そうは思えない。反ラボが反ラボであるからこそ、今のラボに変革の息吹を産んだ。反ラボという名前がなければ、そもそも認知すらされなかっただろう、そしてこれからも、反ラボが別の名前に変えれば、その主張を弱めたと誤解されるだろう。反ラボの名前を変えるのは、その目的の一部、あるいは全部を達成した時が相応しいと考える。現状、反ラボの精神は、ラボにはまったく理解されていないように私からは映るからだ。もちろんこれを判断するのは三田なので、彼がその損益計算をした上で改名すればいいと思う。

https://note.com/mikishusaku/n/n613946c10623 

反ラボという名前については、構造は根源的に欠陥から生じるものだし、それ以降の主観的な意見に関してはそうですかという感じだし、三田は反ラボの創設者ではあるが代表やリーダーのような特別な権力者ではないってことは反ラボマガジンについてのnoteに書いた気がするし、やはり応答のしようがない。まあ反ラボという名前に対する私の個人的な意見としては

https://twitter.com/art_gawakaran/status/1530593256945614848?s=20&t=sZ1X38xE4jxyzDLytKmRoA 

こういうことなんだけど、つまり私は「反〇〇」という言葉に欠陥があるのではなく、言語の構造への認識や言葉の解釈の方に欠陥があると言いたい。

反ラボ参加者募集

元ラボ関係者とはいえ、そして誤解しかされていないとはいえ、外部にも反ラボの声が届いたのは良いことだ。そして三木くんのような活発な参加者がいるのも良いことだ。反ラボは外部の方や活発な方の参加を待っている。

ディスコ―ドへの参加はリンクから
noteのサムネ画像も募集中なのでぜひ描いてください。

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