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ノートの0.5ページめ:うららか絵画祭について

不完全な私のノート

人生に必要なのは結論ではなく、仮説である。ノートというタイトルは、三木清の『人生論ノート』から引用している。三木は『人生論ノート』において、人生は偶然と必然の中間に位置しており、愛や希望や運命はその中間環境によって存在することができると語っている。また、人生には始まりも終わりもなく、ゆえに絶対的な根源にも、絶対的な結論にもたどり着けないし、たどり着く必要もないと考え、ただ、仮説と検証があるだけだという結論を導く。このような三木の人生論が、「ノート」という語をタイトルに含んで書籍化されたことは、非常に示唆的である。ノートとはまさに仮説と検証の場であり、決して結論にたどり着くことのない不完全な場なのだから。三木はノートという形式によって、人生について語ることの不可能性を自覚してなお人生について記述することを可能にしたのではないだろうか。人生とは仮説と検証であり、人生とはノートそのものである。

私が本格的に本を読み始めたのはちょうど去年の1月ごろで、今が2月だから、美術や哲学、批評のようなものに触れて来た年数で言えば一年ちょっとである。そんな私が、美術、哲学、批評のような壮大なテーマに対して、有効な批判や重要な問い、新しい理論を導き出すことは恐らく(たぶん絶対に)不可能だろうし、できるとも思っていない。しかし、今自分がもっている知識で捉えられる範囲はごく小さなものかもしれないが、その小さな範囲の中でなら、大きなテーマにも誠実に向き合うことが出来るのではないだろうか。私がこれから記述していくノートが何かしらの結論に到達することはないだろう。ノートは常にすでに仮説と検証の循環プロセスの中にあり、偶然性と必然性の中間状態で、欠如をもったロゴスや、意味に満たない言葉、テーマ化されることのないテーマを紡いでいく。ジャック・デリダは「二重の会」で、マラルメの詩における晦渋さの中に、完全なる意味付けやテーマ化を避け、亡霊的に立ち現れる「非―テーマ」の存在と、その権利ーー「すべてを言う」権利と同時に「すべては言わなくてよい」権利を読み取った(立花 2015)。これはデリダがマラルメの詩に読み取った権利を基に、その限定的な範囲の中で誠実な議論から仮説を作る、不完全な私のノートである。

うららか絵画祭から帰って

5日前、私はうららか絵画祭に行った。根津駅で降り、グーグルマップで会場を検索して歩いた。到着するとアパートにしか見えないその建物には「花園アレイ」という名前がついていた。一度何かの展示できたことがある気がするが、何の展示できたのか思い出せない。私は調子のいい時でないと一人でコンビニも入れない人(っぽい何か)なので、美術館やギャラリーをまわるときにも非常に苦労するのだが、今回も門の辺りで入る覚悟を決められずうろうろしていた。すると展示を見に来た夫婦が目の前を通りかかって、その手に持っていたチケットが目に入り、すぐに検索、するとチケット1500円の文字があり、チケットがないと入れない展示あるらしかった(つまりチケットなしに入れる展示もあるということ)。しかし私は地図が読めないし、どの建物がどんな名前なのかも知らないし、どの展示会場が要チケットなのかわからなかったし、調べられるほどの精神的な余裕ももうなかったというかチケット持ってない時点で心は折れてた。私は花園アレイを後にし、来た道をそのまま戻って電車で帰った。そして今日は16日。Twitterを見ると、二周目をまわった人もいるらしい。19日までまだ時間はあるが、今のところそのつもりはない。

私にうららか絵画祭に行ったのだろうか。たしかに私はうららか絵画祭の展示会場に入ってないし、展示作品を見ていない。しかし私は、うららか絵画祭に「行った」し、心が折れてうららか絵画祭から「帰った」。アラン・バディウは芸術作品を「真理の微分点」とし、真理とは諸作品からなる構成で、構成は作品に先行するという。(ここでバディウを引用するのはこれまでの私の記述が、バディウが詩に関する考察の中で取り上げた二人の詩人であり、デリダが「二重の会」でミメーシス(芸術における模倣)の歴史的転回に登場させた二つの固有名——である、プラトンとマラルメに関する議論をノートの下敷きにしていたからである。このプラトンとマラルメの下敷きは、0.5ページという薄く半透明に、不完全に捉えられるページの裏側から、透けた状態で私たちにつねに見えている。私にとってノートに下敷きは欠かせないものなのだ。)私はまさに、バディウがいうところの諸作品からなる構成である芸術的布置に遭遇し、しかしその内実となる諸作品に出会うことができなかった。バディウにとって、芸術的布置とは真理であり、芸術作品とは真理の微分点であることは確認した。であれば、私が出会ったものは真理であったが、それは微分不可能な真理、芸術作品なき芸術的布置である。この不完全な出会いを主題化することで、芸術的布置=真理を、微分点=作品から切り離して語ること、つまり作品なき芸術論の可能性を示したいと思う。

私が引用してきたバディウの考えは、『非美学の手引き』に書かれたものだ。バディウの提唱する非美学とは、私の読む限りでは、美学抜きに美的なもの(バディウのいう芸術的布置)を成立させるための概念である。つまり、非美学は学問としての広がりを持つものではなく、むしろ非美学の後で、芸術的布置という真理を教育的に活用することの方に重点が置かれている。しかし、そこには芸術的布置に対する神話化の傾向を読み取ることができる。美学抜きに美的なものの権利を保証し、それどころか「真理」の名すら与えることの伴う危うさ。この危うさは、芸術や美的なものがもつ歴史を見れば一目瞭然だ。プラトンからマラルメへのラインは明らかに西洋中心主義的に作られた美術史に沿っているし、そこで形成された感性、及び美的なものは中心と周縁という非対称性が前提とされている。そのような「真理」にいくら教育的な効果を見出だしたところで、新手の植民地主義に終始するだけだ。これは近年注目されつつある美術史の脱西洋中心主義の動きにおいても言えることだが、現代美術という西洋中心の美術史から生まれた分野において成立し、批評家の目に止まるような作品および芸術的布置は、すでに西洋中心に形成された美的制度の肯定の上で成り立っており、そのような作品との関係性に終始するいかなる美学も批評も、西洋中心主義を否定することはできない。ゆえに私が提唱するのは、作品なき芸術論、美的なものなき美学という意味での「非美学」である。

多くの美学や美術史に関する言説、批評は、特定の芸術作品、あるいは風景などの自然物との関係性の中に終始してしまっている。カンタン・メイヤスーは、カント以降の哲学を、主体と対象の相関項にとらわれた相関主義として批判したが、美学者もまた芸術作品と美学的思惟の相関主義に陥ってきた。私の知識では、それがいつから始まったことなのか、厳密に特定することはできないが、ここではアリストテレス以降としておく。なぜならアリストテレス以降、多くの美学者が批判した「詩人追放論」にこそ、私は美術における脱中心化の可能性を見出だすからだ。たしかにプラトンの『国家』及び第十巻である「詩人追放論」は決して完全な書物ではないし、批判すべき点も多くあるだろう。しかし、真に美術及び芸術の歴史を脱中心化し、新たな美的制度及び美的感性を用意するのにプラトンの詩人なき「国家」、作品なき芸術論というフレームが、大いに可能性を秘めたものであることに変わりはない。デリダ、バディウの下敷きの上で、マラルメからプラトンに遡行する線を引く。かのニーチェはヘーゲルの否定の哲学に対して、生の肯定を説いた。この偉大な相対主義の哲学者の方法を、美学に応用することで美術史の相対化をーープラトンの否定による美学の歴史から遡行して、プラトンの肯定からオルタナティブな美学を創設すること、それによってはじめて「国家」というオルタナティブな美的前提、あるいは制度の上に、オルタナティブな芸術的布置の成立を見ることが可能になる。今度はニーチェの下敷きの上でニーチェの美学に反旗を翻すのだ(ニーチェの生の肯定の哲学は、芸術家という生の在り方を一つの規範として捉えている側面があり、むしろバディウに近い)。

下敷きの上で0.5ページという半透明な紙へと刻まれるエクリチュールは、書き心地を享受しながら下敷きから遡行するようになぞっていく。いや、最初から下敷きは上下逆さに敷かれていたのかもしれない。そうだ、私はまだ帰ってきていない。今私はうららか絵画祭へ帰るために向かっている只中なのだから。

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