見出し画像

Spivak, Gayatri Chakravorty. "Three Women's Texts and a Critique of Imperialism" の翻訳ノート(1)

イングランドの社会的使命として理解され、イギリス人へのイングランドの文化表象において重要な一部であった帝国主義を忘却するのであれば、19世紀の英文学を読んだとは言えない。

「帝国主義」とは、イングランドが19世紀末に他の大国とともに政治、経済的な膨張を意図し、実践した局面を指している。また、「帝国」とは16 世紀から 20 世紀までに、イングランドついでブリテンが公式、非公式に支配しようとしたか、支配した周辺地域を持っていた政治体制を指す[1]。

「帝国主義を忘却するのであれば、19世紀の英文学を読んだとは言えない」ここで使われる「読んだとは言えない」は、原文の "should not be possible to read" の should not をどう訳すかにおいて選択肢が生まれる。すべきでない、しない方がよいと訳せば、倫理的な定言としての側面を強調することになるが、~でないはずであると訳せば、客観的な事実に関する命題としての側面を強調することになる。

帝国論史を踏まえるなら、スピヴァクの "should not be possible to read" は、文化表象の(不)可能性を客観性や事実に関する命題としてではなく、倫理的な定言であったとして解釈する必要がある。というのも[1]で引用した論文——平田雅博「帝国論の形成と展開」においてスピヴァク含むポスロコニアルは、客観的な事実よりも、言説や心の中に存在する支配関係を重視する立場として紹介されているからだ。たとえそれが極端なカテゴリー化であったとしても、少なくとも彼(女)らが客観的な事実や政治、経済に偏重した古い帝国史への批判者として、帝国論の新たなシーンを形成していったという文脈は踏まえて然るべきである。

しかしここでは「読んだとは言えない」と訳すことで、客観的な事実に関する命題の側面を強調した。それはスピヴァクが後に「これら二つの明らかな「事実」は19世紀英文学を読むうえで軽視され続けている」というとき、この命題が一つの「事実」として説明されているからである。これは、古い帝国史が軽視したのは非事実的で非客観的な言説や心の中の支配関係ではなく、事実としての言説、あるいは客観的な支配関係であるというスピヴァクの意思表明として、あるいは事実と言説を二分する思考への批判として解釈することができる。

事実と倫理を、命題と定言を分ける基準はどこにあるのだろうか。命題は常に検証可能であるというならば、定言もまた検証可能ではあるのではないか。「読んだと言える/言えない」と分割可能であることにおいて反証可能性があると言うならば、「読んだと言うべき/言うべきでない」と分割可能な定言もまた反証可能であると言えるのではないか。この倒錯した関係に、事実と倫理の公準をスピヴァクは明晰に示している。すなわち、後に語られる「二つの明らかな「事実」」という命題によって。一度は、文章に内在する事実/倫理の境界の不確定性を事後的に「事実」と呼ぶことで一元化する。しかしその次の瞬間には「事実」に内包されたかに見えた倫理が、語る者——つまり、スピヴァクの側へと回帰しているのである。語られることは常に命題である、この「命題である」こそが定言となるのである。事実と倫理のパフォーマティブな境界確定については、後の翻訳に関してもこれに沿う必要があるだろう。

また、「イギリス人へのイングランドの文化表象において重要な一部であった帝国主義」というとき、イギリスの中でイングランドが重要な一部であるという意を読み取ることができる。つまり、イングランドと帝国主義は全体に対する重要な一部という類比関係に置かれており、その点において同一性でもって結ばれている。この同一性によって、イングランドを語るための帝国主義、帝国主義を語るためのイングランドという必然性へと導かれる。しかし、ここでイギリスにおけるイングランドが重要な一部であるのに対して、文化表象における帝国主義は重要な一部であったというこの差異には留意する必要があるだろう。

文化表象の生産/作品における文学の役割を無視することはできない。

deepl翻訳では「生産/作品」の原語である "production" は生産と訳されるが、ここでは作品と訳すこともできるはずだし、少なくとも現段階では二通りの翻訳可能性は宙吊り状態に保たれている。

"production" を生産と訳すならば、「文化表象の生産における文学の役割」という訳文ができる。これを前文の文脈に置き直すと、「文学の役割」は「帝国主義を忘却するのであれば、19世紀の英文学を読んだとは言えない」という命題から遡行して考えることになるだろう。すると、少なくとも19世紀英文学は、読者——読んだと言える者に帝国主義を忘却させない、あるいは、帝国主義の記憶を伴う限りにおいて読むことが可能にならなければならない――つまり、読まれるときに帝国主義の記憶が常に伴うことが文学の役割であると解釈することができる。

また、ここでは前文の「イングランドの社会的使命として理解され、イギリス人へのイングランドの文化表象において重要な一部であった帝国主義」——イングランドが社会的使命として理解される帝国主義——と、文学が役割として持つ「帝国主義の記憶が伴うこと」がゆるい類比関係に置かれている。つまり、帝国主義に関する使命、役割を持つという点において、イングランドと文学は同一性によって結ばれているのである。

"production" を作品と訳すならば、「文化表象の作品における文学の役割」という訳文ができる。ここでの「文学の役割」は、「文化表象の作品」全般において重要な一部分である「文学の役割」——「文化表象の作品」全般に内包される、一つのカテゴリーとしての文学だけが持つ役割という側面——つまり、文学の特権性、あるいは自己言及性が強調されている。

「作品」と訳したとき、「生産」と訳した場合に類比関係に置かれた、使命としての帝国主義ではない、もう一つの帝国主義——「イギリス人へのイングランドの文化表象において重要な一部であった帝国主義」が類比関係に置かれている。つまり、「文化表象の作品」全般において重要な一部分である「文学の役割」と「イングランドの文化表象において重要な一部であった帝国主義」が類比関係に置かれることによって、全体に対する「重要な一部」として、文学と帝国主義は同一性で結ばれていると解釈できるのである。

すると、少なくとも現段階において文学は二つの同一性によって結ばれることで、同時に引き裂かれてもいるといえる。一つは帝国主義に関する使命を持つ者としてのイングランドと、もう一つは全体に対して重要な一部としての帝国主義と結ばれることによって、文学は結ばれつつ引き裂かれるというアポリアとして立ち現れる。

ここで「イギリス人へのイングランドの文化表象において重要な一部であった帝国主義」の一文で考察したイングランドと帝国主義の同一性を思い出すならば、事態はさらに複雑になる。このとき三者(文学、帝国主義、イングランド)は順列の計算に倣うならば、3×2通りの組み合わせごとに文化表象をめぐるキャラクターを構成するだろう。すなわち、イングランドとしての文学——帝国主義を使命とする者、帝国主義としての文学——イングランドに使命されるモノ、そして帝国主義としてのイングランド——イギリスに対する重要な一部であるもの、文学としてのイングランドーー帝国主義を使命とする者、文学としての帝国主義——文化表象における重要な一部であったもの、イングランドとしての帝国主義——文化表象における重要な一部であったものである。

ここで、イングランドとしての文学と、文学としてのイングランドが、そして文学としての帝国主義と、イングランドとしての帝国主義が同一のキャラクターであることが明らかになる。であれば、文学とイングランドはより強固な同一性によって結ばれることになるだろうし、帝国主義はイングランドとして、あるいは文学として、どちらにせよ文化表象における重要な一部であるものとして現れることになるだろう。

帝国主義が政治、経済的な膨張を意図し、実践した局面を指すということは事前に確認した。前述した考察を踏まえれば、帝国主義が膨張を意図し、実践するまさにその局面において、少なくともイングランドと文学においては「一部であった」もの(<帝国>の不可能性)でしかないというそのアポリアがここで露呈することになる。これは、アントニ・ネグリ&マイケル・ハートの<帝国>へのアンチ・テーゼともとることができる。また、グローバル化の限界についてスピヴァクは『いくつもの声』や、『サバルタンは語ることができるか』でも言及している。

再度三者から構成されるキャラクターを列挙するならば、帝国主義を使命とする者、イングランドに使命されるモノ、イギリスに対する重要な一部であるもの、文化表象における重要な一部であったものの四つを見出すことができる。また、これらのキャラクターは二対のカテゴリー――使命とする者と使命されるモノ(使命型)、イギリスに対する一部であるものと文化表象における一部であったもの(一部型)——を持つ。

「イングランドの社会的使命として理解され、イギリス人へのイングランドの文化表象において重要な一部であった帝国主義」を見れば、帝国主義という使命は理解されたもの、他者によって、外的に規定されたモノである。すると、規定関係にある階層構造が、すなわち、使命されるモノに対する使命とする者の優位、そして使命とする者であり、かつ理解されたモノに対する理解する者の優位が露になる。ここでスピヴァクは「理解される」をある程度定言的に――誰によって、どのようになどをカッコに入れて用いているように思われる。つまり、スピヴァクは理解する者という他者を定言的に持ち出すことによって、使命型の原点を設定しているのではないだろうか。使命型の原点に理解する者という他者が置かれること自体にも、スピヴァクの一貫したプログラムを見ることができる。

これら二つの明らかな「事実」は19世紀英文学を読むうえで軽視され続けている。

ここでスピヴァクは、「事実」という側面を「明らか」に強調しつつ、「帝国主義を忘却するのであれば、19世紀の英文学を読んだとは言えない」こと、そして「文化表象の生産/作品における文学の役割」が軽視され続け、今なお注意を向けられていないことを訴えている。「軽視」の原語である disregard には無視という意味も含まれる(そのとき前文の「無視することはできない(should not ignore)」と矛盾する)が、ignore に対して disregard は「まだ気づかれていない」という意味を持っている[2]。つまりここでは無視不可能なものに対して、未だ注意を向けていない――その存在に気づいてすらいない状態であるということを踏まえる必要があるだろう。

ここで「二つの事実」に対象とされる使命/役割が、四つのキャラクターを構成することを思い出すならば、使命/役割の「軽視」とは、まさにキャラクターの「軽視」であるといえよう。

それ自体、より現代的な形式に脱臼され、散逸された帝国主義者のプロジェクトが成功し続けていることを証明している。

「脱臼(displace)」は類義語に replace を持ち、これらは共に「取って代わる」という意味を持つ。しかし、replace が「後任になる」のような意味を持つのに対して、displace は「難民(displaced person)」という言葉との結びつきからもわかるように、「強制退去」というある種の苦難のニュアンスを持つ。文化表象において、帝国主義が膨張を意図し、実践するまさにその瞬間に、一部であるモノでしかありえないという帝国主義の不可能性を考えれば、displaced and dispersed の語呂の良さに限らず、ここで replace ではなくdisplace が使われるのには必然性があると考えるべきだろう。なぜなら、 displace と記すことによって帝国主義が自らの不可能性というアポリアを抱えたままに――未解決の状態で――にもかかわらず現代的な形式に無理に「脱臼」されたという文脈を強化することができるからだ。ゆえにここでは「強制退去」的な苦難のイメージを伴いつつ現代的な形式へと無理やりにずらされるというニュアンスを強調して「脱臼」という訳を充てた。

「散逸(disperse)」には、消散と拡散の二つの意味を見て取ることができる。消散と捉えれば、「帝国主義者のプロジェクト」が一種の隠蔽工作によって秘密裏に進行している現状を露呈させるパフォーマティブな文章として取ることができるし、拡散と捉えれば、「プロジェクト」の拡大に対する反対声明として捉えることができる。これらのニュアンスを踏まえつつ、「プロジェクト」の「脱臼」という苦難のニュアンスを保つために、散逸——書物などがばらばらに散り失せてしまうこと――と訳した。

「それ自体」の「それ」とは、まさにキャラクターの「軽視」であることは前文からの文脈から読み取ることができる。すなわち、帝国主義を使命とする者の「軽視」、イングランドに使命されるモノの「軽視」、イギリスに対する重要な一部であるものの「軽視」、文化表象における重要な一部であったものの「軽視」である。これらキャラクターの「軽視」こそが、「より現代的な形式に脱臼され、散逸された帝国主義者のプロジェクトが成功し続けていることを証明している」のである。であればこれらのキャラクターの重視が脱帝国主義を、「帝国主義者のプロジェクト」の失敗をもたらすのである。

訳注

[1]平田雅博「帝国論の形成と展開 ー文化と思想の観点からー」p.21
なお、この論文では「マンチェスター大学帝国主義研究シリーズ」という全帝国に渡り、ほぼすべての問題に触れている広大なシリーズにおいて、文化・思想・言語(英語)の問題への言及が少ない、あるいは不在であることについて指摘し、結語では帝国主義論を生み出してきた経済史における「物質主義」的な偏りに対して、経済史家らによる思想史への誤解を解き、グローバリゼーションの歴史的理解に思想史を取り入れる必要性を訴えている。また、スピヴァクについての言及もあり(p.25)、ここではブリテンの伝統的な「国内史」からヨーロッパ諸国における帝国の問題を踏まえた比較研究へと至る「帝国論的転回」の、仕掛け人としてのポストコロニアルという潮流に位置付けられている。また、ピーター・マーシャルの中に、政治、経済に偏重した古い帝国史と、言説や心の中に存在する支配関係に偏重した新しい帝国史の弁証法的解決を見ている(p.26)。

[2]「無視する」のignoreとdisregardの意味の違い | ネイティブと英語について話したこと (talking-english.net)

メモ

  • should は提言ではなく命題として翻訳する

  • disregard は ignore (無視する)と区別して「軽視する」と訳す

  • displace は「脱臼する」、disperse は「散逸する」と訳す


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?