祖父から戦争について聞いた話
Saluton! もやしです。
今日は、祖父母の家でNHKの戦争関連の番組を見ていた時の話。
自分は戦争経験者でもなければ戦争について詳しいわけでもなく、中高の日本史で学ぶ程度の知識しか持ち合わせていない上、祖父が曾祖父から聞いたことが中心であり、当時からかなり時間が経っているので、今回書く話には間違いがあるかもしれない。その点はご了承いただきたい。
祖父は戦後生まれ。
そんな祖父の父(自分の曾祖父)は戦時中、日本から中国に渡った軍人さんだったそう。
曾祖父はめったに戦争のことを話さない人だったそうだが、そんな曾祖父がある時ポロっと口にしたことを祖父は忘れられずにしっかり覚えているということだ。
それは、中国での出来事。
曾祖父が赴任した日本の占領下だった中国の一部地域では、戦時中によくありそうな状況ではあるが、捕虜がたくさんいたらしい。しかも、その捕虜というのはもちろん民間人なんだそう。
日本の軍人はその捕虜たちをどう扱っていたのかというと、なんとも聞くに堪えないが、いかにも残酷なやり方で殺していたらしい。
中国人捕虜たちは、殺される前に手を軍人の前に差し出して軽く握り、人差し指をクイックイッと曲げ伸ばしするのだそう。
これが何を意味しているのかというと、ピストルの引き金を引く動作であり、いっそのこと銃で打ち抜いて一瞬で死なせてくれ、ということらしい。
というのも、捕虜を殺すときに使っていたのは銃剣と呼ばれる、銃の先に短剣がついたものだそうだ。
実地で踏ん切りがつかずに敵を殺せない、という事態を防ぐために、捕虜を使って人を殺す訓練をしていたと言うのだ。
できるだけ実際に近いやり方で殺す訓練をするために、そしてできるだけ貴重な銃弾などの資源を消費せずに殺す訓練をするためにこの形式がとられたのではないかということだった。
戦時中に国家総動員法が制定されたことや資源が不足していたという背景から考えても、このようなやり方で殺していたというのは想像に難くない。
いくらそのような行動をとる軍人本人が、こんな惨いことはやりたくない、やめたいと思っても、上官の命令だから有無を言わずに従うしかなかったのだそう。
そんな経験をした曽祖父は、傷痍軍人として日本に帰国したらしい。
川を渡って物資や人を運ぶためには、橋が必要であるが、建設してしまうと敵に居場所や行動ルートがばれてしまったり、そもそも橋を架けるために必要な資材が不足していたりと、当時の架橋には様々なハードルがあったそうだ。
ただ、わざわざ架橋なんてしなくても、もっと手っ取り早いやり方が存在する。
そう、人間で橋を作ればいいのだ。
人間2人で板の両端を支え、このような組を川の手前側から向こう岸まで配置する。そこまで深い川でなければ、入水する人が濡れてしまうことを除けばある程度問題なくこのやり方で大体は済んでしまう。
しかし、いくら板の両端を2人で支えるといっても、人や物資を運ぶ際には間違いなくダメージを受ける。絶対に重い。
曾祖父はこの時に酷い怪我をして帰国したのだとか。
日本に帰ってきた曾祖父は、大津の病院に入院させられ、お国のために海を渡り、外国で尽力した傷痍軍人ということで病院では非常に丁寧な扱いを受けたそうだ。
また、祖父の子供時分の話も聞かせてもらった。
祖父が幼いころというのは、戦後ではあったものの、街に外国人がほとんどおらず、今となっては考えられないほど珍しい存在だったのだそう。
祖父は大阪市内在住だったので、ちん電(阪堺電車)で数十分堺の方へ下ると、終点の浜寺へ出ることが出来る。
そうしてたどり着いた浜寺には、MP(military police; 憲兵、軍警察官)がいたそうだ。
外国人なんてそうそういない世の中では、外国人を見るたびにひどく驚いたらしい。
日本人に比べてがっしりとした体格、鼻が高くて彫りの深い顔、いかつい軍服姿。
太平洋戦争において、日本は敗戦国である以上、この戦争のことを誇らしく話す人は現在、自分の周りにはほとんどいない。
さらに、終戦から78年が経過しているが、戦争を経験した人や占領下の日本を知っている人がどんどん少なくなってきており、戦争体験の継承に警鐘が鳴らされている。
こういうわけもあって、今回のnoteを執筆するに至った。
一刻も早く平和な世界が訪れることを祈っておわりとする。
もやし
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