『まんじゅう』#204
まんじゅうに限った話ではなく、こうしてある名詞のひと単語にフォーカスしたとき、私たちは何をもって、ある対象とある言葉とを結びつけているのだろうかと、頭の中では白く次第に濃く深く霧が立ち込める。ひとつ、答えは出ていて、というか本を読んで納得したことで、それは、経験記憶による記憶心像があることで「あぁあれか」と“わかる”こと。“わかる”ためには心像があってそれを頭の中に、あるいは網膜の裏側に、呼び出すことができてやっと可能になる。だから当然、まんじゅうを見たことがなければまんじゅうをわかることはない。食卓の上に置かれたなんか丸くてぷっくりしているもの、と目が捉えたとしてもそれをまんじゅうと結びつけることはできない。初めて食べた時に「これなに」と聞かれて「まんじゅう」と誰かに教えてもらってやっと「これがまんじゅうか」と次からわかるようになる。それからいくつか種類の違うまんじゅうを食べてそれらを「これもまんじゅう」「あれもまんじゅう」と知って、まんじゅうというカテゴリを形成して記憶心像のイメージを多様に膨らましていく。こうして枠組みを構成するイメージを増やして膨らましていくうちに「誰かはまんじゅうと言っていてまんじゅうだと思っていたけれど、別の誰かはこれをパンと言ってた」「もちと言ってた」と、まんじゅう観を揺さぶられる体験をする。そのときにわたしたちは、「あんこが入っていること」や「小麦粉で作られていること」をイメージから引っ張り出して、定義を確かめ合う。「じゃあ水まんじゅうは小麦粉使っていないが」と言われても「あんこが中に入っていること」でちょっとしたエクスキューズを用意できたり、「あんこが入っていないものだってあるだろう」と言われても「手のひらに収まって、小麦粉を練って膨らませて、焼くなり蒸すなりしたものであれば」と応じてみたりする。そうして飛躍的な拡張がされながら強度のある枠組みを得て、まんじゅう観が一段と醸成される。
われわれはいま、まんじゅうを恐れることなくまんじゅうと納得して食べられる現実に生きている。
こうして、まんじゅうの核心たる中身に触れず、外側を言葉でなぞるだけで味わうことだって可能なのだ。
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