『背表紙』#114

ずっと、いまも、確信を持てていない、部位、というか、部分、名前。
いちおう、本をパカっと180度開いて、表紙、背表紙、裏表紙、この三面が見えているんだ、と今現在の認識ではこうなっている。どうやら間違ってはいない、正解らしい。
この迷いが、この確信のなさが生まれる理由のひとつは、本の表紙を顔に見立てて「おもて」とするからだろうな、このことは迷いなく言える。おもてを人体と同じに見立てて顔、正面だとしたら、背面は裏表紙の面を言うだろう、そこを背表紙と呼びたくなる。正面と背面とで、表紙と背表紙、なんの違和感もない。
しかし一方で、わたしたちは、わたしは、本棚に収めたときに見えるあの面、本を綴じて閉じた小口をカバーされたあの面、あれを背表紙とずっと呼びならわしてきたことも否定できない。本屋で、図書館で、「背表紙を見て心惹かれるものがあって」「背表紙に書かれたタイトルで興味が湧いて」「本の分類シールは背表紙にあって」、3つめはなかなか言わないか。とはいえ、あの見えているところを背表紙とずっと呼んできた。裏表紙とは呼んでこなかったし、背表紙という単語を知ってからはずっとあの小口面を背表紙と呼んできた。
背表紙・裏表紙混同問題は、背表紙がどっちで裏表紙がどっちで、という対応関係がわからなくなるのではなく、背表紙ってどっちのことを言うんだ?片方を背表紙と言うならばもう一面をなんと呼べばいいんだ?という、消去法の悩みが問題なのだ。
背表紙と同時に裏表紙を知ったでもなく、背表紙を知った頃に「じゃあこの面(裏表紙面)は何て言うの」と聞けば結果は違ったのだろう、しかし表紙を初めに知り、あるいは背表紙を初めに知り、次いで背表紙あるいは表紙を知り、そして裏表紙に気をとめた頃にその第三面を知る、そんな過程を経てきたが故の混乱がここにある。
わたしは背表紙においては岩波新書がマイフェイバリット背表紙である。背表紙の白い本は五万と五百万と五億とあるが、あのどこか細身のかすれたように見えも見えなくもない題と著者名が何か作用して背景がとても透明なように見える、そんな白い姿がとても好きだ。光沢があることも関係しているかもしれない。光の当たりづらい陰をも白く、透明なように見せている。ただ、そこにおいては背表紙に限ったことでもなく表紙においてもそう言えそうなのだがあいにくカラーの地色がワインのエチケットのように貼られ文字はその面にあてがわれ、白地と文字のコントラストは効かない。とはいえ表紙の青緑色や黄色赤色はまた光沢があって美しいのでそれは、それでよくて。
文庫や新書ばかりでは自分の本棚は画一的な表情になってしまうので単行本も混ぜこぜに置くのがたのしい。

#背表紙 #180411

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