『把手』#144

とって。ドアの、把手。コップの、取っ手。カバンの、とって。茨城の、取手。
とってについて。最後の茨城にある地名は「とりで」なので今回の出番はここまでです、悪しからず。
建築設計を大学でやっているときまでも、ドアノブもハンドルも引き手も、全ての把手はイデアでしか見えてなかった。樹脂で作られて平滑で握り手に作用しないもの、真鍮でつくられて多くの人の手に触れて色が熟しているもの、ドアに掘った凹みに嵌め込まれたアルミ製の舟形のもの、などなど色々あるのだ。いや形やサイズ、素材や色、家から最寄駅へ向かう中でならどれとして同じ把手はないのでは無いかと、見てみればそう気づくだろう。肩で背負うリュックサック、手から提げるビジネスバッグ、カバンについた把手に関しては革の握り手が付いていたりナイロンのシンプルなものであったり、これまた色々ある。
設計事務所で勤めてからはじめて、私の目には把手が「ひとつひとつ個別のものとして知覚」され「選択可能」であると認識された。わたしは、認識した。
無知の知。じぶんの無知を自覚することで真の認識へ、さらなる探究の道を進むことができると、過去の哲学者ソクラテスは言った。その「無知の知」の体験、それは「目からウロコ」と言ってみたり「アハ体験」と言ってみたり、意味は少しずつ違えど一般的な言葉で言えばそのように(アハ体験が一般的な言葉であるかはわからんな)。
建築界隈では「解像度を上げる」と、それはある物事の具体性を高めた場合を主に、ミクロな視点を凝縮した場合、事象を深く掘り下げて調査・発見をした場合に使う慣用句がある。語源はグラフィック系の用語で、画面を構成するピクセルの数、モザイクのマス目の数、これらを増やすと投影される像は明瞭になり輪郭・色のグラデーションなどが滑らかになる。解像度が低ければガビガビの映像で、いわゆる、モザイク状態となる。
建築設計の視座を得て、わたしの目が把手を個として捉えることができた。世界を認識する解像度が上がった。それは把手にかぎらず、扉の蝶番や引き戸のレール、窓枠の寸法にも、開口部周りではたいへんに目と手は差異を捉えているし、建物、ひいては都市を見る目の解像度がグンと上がった。
先の視座、という言葉は佐々木俊尚さんの新書『キュレーションの時代』で見たときから時々使っている。以下に一文を引用する。
“ キーワードやジャンルや場所のような無機物を視点にする限り、斬新な情報はなかなか入ってこない。でも他者の視座にチェックインして、その人たちの視点で世界を見ていくと、鮮やかな新情報が次々と流れ込んでくる”(佐々木俊尚『キュレーションの時代』p197,l12, ちくま新書,2011)
知のアプローチとして、わたしがとにかく『把手』に興味を持って個をひとつひとつ調べていったら博物誌的な知識の積層を作ったのだろう。けれど建築設計をする人の視座に立ったときに見えるものはそれとはまた違った、世界に散在するありとあらゆる「設計された」把手であり、全体性をもった都市・建物・物品のなかの要素として、まず見る。
まとめとして大変雑であることはご容赦の上、全的にテンションの低い自分にとってとにかくマクロから世界を眺める視座を得られたことは大変良いことだったなと有り難く思う5月。
通し番号的に、『累乗』をテーマにしても良かったなぁ。

#把手 #180511

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