『苦い』#84

ゴーヤは昔から好きだった。チャンプルー以外で食べたのは味噌汁と漬物でしかないし、沖縄には一度も行ったことがないけれど、好きだ。
ピーマンは、いっとき生のサラダで入ってるのが苦手な頃があったけれど肉詰めやチンジャオロースーで慣れた結果、苦手意識はなくなった。
春菊とセロリは、生では未だに苦手意識がある。癖のある香りによるところもある。火を通していたりクタクタに煮えているのは平気。セロリはソフリットとしては大事な食材でもあるし、その味はすごく好き。
そもそも苦味は動物にとって毒のあるものを感知するために、何倍か強く受容・知覚するという。子どものころに苦手意識があっても大人になるにつれて食べられるようになるというのも、同じ仕組みに起因するもの。子どもは食べたことのない苦味に対して毒のあるものだと脳が反応をする。次第に食べて慣れて、毒のない食べ物なのだと安心できれば食べられるようになる、という成長過程を経る。そこから「おいしい」に転じるのがどういうメカニズムがなのかは私にはわからない。予想するには、うまさを感じるポイントが、以前には苦味を際立って感じてしまうために隠されてしまっていたが、苦味の障壁を克服することで味わえるようになる、という説。ピーマンについて言えば、サラダにして生で食べる時のフルーツのようなみずみずしさ、肉詰めでひき肉以上に感じられるギュッとした肉厚さ、それに苦味自体もピーマンの香りとして楽しめるようになった。毒の気配なんて微塵もない。
毒を身体が警戒して味覚を研ぎ澄ませるいっぽう、対極の概念もまた、苦味のあるものだというのが面白い。「良薬口に苦し」と言われるように薬もまた、概して苦い。人体に影響を及ぼすもの、それがウイルスと戦ったり免疫力を高めたりする「薬」だとしても、身体機能を超越するとか変えるとかって性質を持っている以上、人間にとってはある意味「毒」とは言えそうだ。
苦味は毒への警戒反応、そういうことならじゃあ、「苦い経験」は果たしてどのような身体反応に結びつくのだろうか。挫折や失敗、後悔。そこから復活と反省を経て、訓練・上達、そして成功・克服。子どもが苦味のある食べ物を克服する過程ともダブる。
苦い経験は成長のための必要毒か、と言えるかどうか、それは賛成しかねる。貧困にあえぐ家庭に生まれる、ということは子どもの将来の可能性を狭める・暗くする、ということも一つあって、わざわざ望んでまで得る経験とは違う。親の不仲もそうだ。「与えられた環境」については必要毒とみなすことはできない。ただ、だ。ある目的に向かって進む過程で直面する「苦い経験」というのは、大いに歓迎されてよいもの、よいもの。よいものだけれどじゃあ自分は思い切りよく「さぁこい」と張れるかというと自信がないもんで苦々しく思う。

#苦い #180312

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