『速い』#228
自分が、ある速度をもった移動物体それ自体であるかあるいはその物体と同期しているか、そのとき、加速を続けていくと、ある速度を超えたときに恐怖を感じることがある。速すぎる、と。それは逆のことでもいえることがあって、遅すぎる、それにも恐怖を感じるときがある。
それはひとえに、経験と本能、これで片がつく話でありそうな予感と予想をしている、けれどもこれまで本能的・反射的に感じながらも言葉や文字にして外部化してこなかったから改めて書いてみようかと思ったところ。今夜のランニングではペースをグッと抑えて走ったなか、陸橋の下りでだけあえてフルパワーで速く駆け下りた、そのときの恐怖感が原動力。
脚で走ったときには、ほとんど恐怖を感じる機会は無い。今回のように、下り坂で重力・位置エネルギーを利用して自分の脚力以上のダッシュでスピードを上げていったとき、ふっと恐怖でブレーキをかけたくなる瞬間が訪れる。その恐怖は、一言で言うと「止まれない」ことへの恐怖。スピードが上がり過ぎたときにネガティブな憶測が出てくる。「足の回転数が上がり過ぎて、もつれそうになる。でも、もつれたときに転ばないよう制することができないかも」、「横道から人が出てきたとき、避けるための横っ飛びをするには前足が体重を受け流しきれないかも。ぶつかる前に止まるにも近かったら止まりきれないかも」とか、とにかく制動できないことへの恐怖が発生する。それは本能的な危機回避行動・判断が正常にはたらいている証左だろう。恥ずかしいことじゃない。
一方、速さの度合いや、場面にによっては恥ずかしいと感じることもある。
スキーが趣味で、そこそこに滑れる自信はあるのだけれど、スキーほど強く、その制動不可な速さに恐怖を感じるものはない。急な斜面、荒れた雪面、「もし、ブレーキしきれないスピードで、しかも予期しないタイミングで跳ねたら、尋常じゃなく派手に吹き飛んで転げ落ちて大事故になるかもしれない」、そう感じる瞬間がままある。そういうときの、あとは、安全に確実に踏み込んで大きく滑ろうという意識がはたらく。意識して身体にそう指令を送る。それでも、少しずつ、持ちスピードは速くなってきている。転んでも無事に今も滑れているのだし、速くても足回りを御し切れる、その自信が速さにつながる。とはいえ、そんな自信も父親の超人的な速さを見せつけられると、あっさりしぼんでしまう。彼はどれだけの恐怖を乗り越えて、あの速さを得たのだろうかと途方にくれる。
W杯で見るサッカー選手は猛烈なスピードでドリブルやパス、シュート、刹那的な駆け引きをしている。彼らもきっと、超えて超えてあの速さまで辿り着いたんだと思うと、見る目がまた変わる。
雪上スポーツも、陸上スポーツも、モータースポーツも、限界を幾度も超えてきた人たちの姿はすべてナイキ(だっけ)の有名なコピーに集約され、私たちを鼓舞する。限界を決めるのはいつも自分だ、と。しかし、おそらく、彼らは限界を超えてきたのでなく、壁を1つ1つ、超えてきたのだろう。
私にとって最も感動的で最も衝撃的だった出来事は2009年に出会ってから変わりなく、常識を超えた世界記録をさらに自分で超えてみせた、100m走、9秒58を叩き出した、ウサイン・ボルトの走り。
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