『充電器』#186

いまもこの文章を書きはじめるにあたってiPhoneを充電器に繋いだ。寝るときに充電しないで起きてから充電する習慣(枕元にコンセントがない)だから、書くために繋いだというよりはいつも通りの動きの1つで、起き抜けのケータイの充電。寝る前にフル充電して寝る場合と半々、ではある。
電気を、電力を溜め込むためには電源から供給しなければならないわけだからコンセントなくして充電なし。
ただ、人間って生き物はあらゆる場所で“充電”されるんだよなぁ、ワイヤレスだなぁ全身プラグto世界だなぁと思ったのが今回の発端。とはいえ人間の“充電”はそもそも、電子機器が開発されて充電って概念ができたから人間に言い回せたわけであり。そして人間の面白いところは、身体活動のためのエネルギー、燃焼するカロリーが本来的な電力であるのに加えて精神の安定と充足が、活動のエネルギーとなるのがまた、ワイヤレスだなぁと思わせる。
充電器から派生した余談。地球は丸くて球面なのに、人にとっての器になってる、概念の不思議。
電力を充電するあの充電器、携帯電話については、ケータイデンワのころからプラグ部分はほとんど変わらない。ケーブルとプラグ部分がフィックスされたものしかなかったのが、USB接続可能な状態に変わったぐらい。コンセントとプラグって関係性は変わらない。ただ、端末側の端子は少しずつ、メーカーごとのめんどくさい差異から少しずつ収斂していって、USB-Cか、あるいはアップルのライトニングか。収斂してきて便利になったはずなんだけど、差異は際立つ2つが残っているわけだから「めんどくさい」のだ、相変わらず。盛り上がるユニバーサルデザインやグローバルの概念も、ケータイ充電器については和解しきれないのだろうか。いまの状態を和解というならそれはそれで仕方ないと言ってしまっていいのか。ケーブルのコンセント側がUSBであることで日本国外、全世界的なケータイ充電がグンと楽になったことは間違いない。これはすごい進歩というか淘汰の歴史があるのだろう。
人間にしてもそうか、日本国内のみならずどこを訪れたとしても充電することはできて、何か端子の調整がいるだろうかと考えて真っ先に浮かぶのは言語、話す聞く、書く読む、情報の出力と入力がストレスなくできれば、抵抗Ωは小さくなる。食文化や、コミュニケーション文化、気候など環境要因が抵抗値を上下させる。ケーブルが一本で済むならこんな問題発生したいのになぁと思うか。
シンクロ度の高い比喩は比喩対象間で概念のやりとり、置換ができる。これを文章を書く上で意識できると、輻輳させた話の中でいいオチを作れそうだなと気づいた。
知識を電力に例えるならば。こう書いて出力しているのに知恵を習得・蓄えられていて面白い事象だなぁと思ったのだがよく考えるとこれは知識じゃなくて知恵なわけでどことなくズレたなぁと思うわけでなるほど比喩は難しいと実感、ショート。

#充電器 #180622

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