『アダプタ』#344

昔々、スーパーファミコンというものがありまして小学生当時にはそれでゲームして遊んでおりましてそのスーパーファミコンはテレビとは赤白黄色線の音声&映像ケーブルをつなぎ、電源としてはコンセントにプラグを差して使うものでありまして、その電源をとるプラグは簡素なものでもなくてなかなかゴツい直方体でたぶんジャガイモくらいでかくてそれを我々は「アダプタ」と言っておりまして、いま、目の前のMacBook Proの電源をとるために充電器をコンセント(タコ足ですが)に差したところでそれで「あ、アダプタっていうのかこれも」みたいなことを思い至ったものです。
ただ、それだけでアダプタと書こうとは思うわけもなく、スーパーファミコンを思い出したときに「そういえば、アダプタをあの頃はふざけて、かさぶた、とか言ってたなあ」みたいな懐かしい記憶まで蘇ってきてふわあっと気持ちが込み上げてきたところでこう、書き始めたわけです。
あなたは、アダプタをかさぶたとは言っていませんでしたか。
昔っから、今に至るまで、わたしの家族は言い間違いとか、空耳にやたら反応する性質がある。時々には、確実に正しく聞こえるだろうときでも、あるいは、どう考えてもその空耳で正しいわけないだろうってときでも、「◯◯?(空耳)」と返してくる。わたしも返していた。まったく面白くなくて、空耳をした方は楽しいかもしれない。そこそこに楽しい。でも、聞き取られなかった話し手の方は、「んなわけねえだろ」「まともに聞けよ」「聞き取れなかったら“もう一回”って促せばいいだろ」と、冷ややかな感情とともに「あ、なんでもない」と、言ったことを無しにしたくなる。反抗期の前でも後でも最中でも、同じ気分だったのだから相当、面倒臭かったのだろう、し、面倒くさい。そんな冷めたマインドの私が、当たりをかまされたのが「かさぶた」だったのだから、おかしな話だ。まるで意味がわからない。
妹とか父とかと分担してゲーム機の準備をしているときに、「アダプタ差して」ってお願いをするときにはなぜか「かさぶた」とか「かさぶた差すね」とか、なぜか穏やかに応じるのだ、私がお願いする側でも、される側でも。なぜか、かさぶたは許されていた。
これはおそらくだけど、かさぶたがアダプタと母音が同じであるとか、かさぶたが可愛げのある言葉に聞こえるからとか、そういう言葉にまつわる理屈じゃなくて、単に、ゲームが楽しみだから細かい雑事はどうでも良く聞き流せていた、って理由なんだろうな、と納得している。
そもそも、アダプタが本来何を意味するものでアダプタのイデアを知らなかった自分なのだから、かさぶたであろうがなんだっていいのだ。adapt、適合しさえすれば。

#アダプタ #181127

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