『眩しい』#126

夜勤明け、外に出るなり朝の明るい街中を見るとき、「あぁ、くたびれた、今日もよく働いた」「気持ちのいい朝だ」「おなかが空いた」とか色々思うことはあるけれど、朝の日の光を感じて思うことは漏れなく「眩しい」ということ。
暗い夜の時間帯から室内で働き始め、仄暗い人工照明のなかを動き回り、しかし朝5時を過ぎる頃には一部室内にはロールスクリーンの隙間から日が差し込む。そのときには、眩しい、というより、明るい、という感想が浮かぶんだ。自分の目に差し込む日光としての感受ではなくてそれは部屋の照明を紛らす客観的明るさ。
まったくもって関係のない話をブチ込むと、これ書いている途中で書ききれないまま時間があいて、また再開しようというときに、話題は覚えているけれど書きぶり、特に文末表現・仕草を忘れてしまって戸惑うことがままある。今回のもそう。「〜なんだ・んだ」って書いていたり「〜(体言止め)」とか「〜なのです」とか、多人格が雑然と居並ぶようすでよくないことがままある。ままある。
それで、仕事上がりに外に出たときに感じる「眩しさ」は、朝という時間感覚を体感することにつながっているし、体感、あるいは体内時計の調整と言おうか、わりと大事な瞬間の発露かと思えてくる。
そんな、視覚に加えてカラダ全体のバイオリズムに則った体験とは別で、ただカメラのフラッシュに対して眩しいと感じたり、夏の暑い日の車のボンネットで反射する光を眩しいと感じたり、ふとした瞬間のひとの笑顔に眩しいと感じたり、と。
だいたいが瞬間的で、だいたいが意識外からの到達で、よく使う言葉では「ふとした瞬間」の出来事。特には例に挙げた最後、ひとの笑顔ってどこででも触れるものだけれどそのたくさんの笑顔のなかで「眩しい」と感じるものって実は少ない。それは逆にいえばわたしの感受性が鈍いと言えるかもしれないが、裏を返せば、たくさんの笑顔に触れられているからこそ、ふだんの居る場所が明るいのだと考えることもできる(逆裏対偶の定義が甘いので表現に少し不安が)。
都市生活、飽食文化に慣れてしまうと普段は食べ物のありがたみを感じることがない、みたいな言説も時々あるけれど、でも、そういう飽食文化の濃い都市ではテレビのバラエティ番組でもドキュメンタリー番組でも「食べ物の得られるありがたみ」を大々的に扱う番組も番組構成も、やたらと多く感じるもので、これはどういうことなんだろうと困惑する。嫌な構図だけれど、「食べ物の得られるありがたみを感じきれない飽食文化に浸ったひとに向けた、その不感症を避けるための点滴、“贖罪”ドーピングなんじゃないか」って勘ぐってしまう。
眩しさを感じられる脳の訓練をさせられているような。
でも、悪いことのように思えるけれどでも、子供の成長過程では「感じること」と「(それを客観的に伝えるための)言葉にすること」は一対の大事なプロセスラーニングなはずなんだよな。
だんだん何を書いてるからわからないくらい思考が拡散していっているんだけれど今回のテーマである『眩しい』ということに関しては朝の帰りの電車でまとめることができなかったので、西日の差す自分の部屋で夕陽を浴びながら書き記してみたということで、カーテンを閉めたい。

#眩しい #180423

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