『拾う』#348

捨てる神あれば拾う神あり。とはよく知られたことわざですが特にいま人に見限られたとかいうわけでもないのでただ、先の『捨てる』話からひっぱった書き出しの材料で、ここ最近拾ったものって何があったか思い出してみるとそういえばチョコレートの空き箱を、ゴミ箱から拾ったわけでもないけれど、ただ無用になった空き箱を、デザインが素敵だったもんだから「ください」と貰ったことがありましたね、それくらいか、拾い物は。
何か持ち物を落とせば、拾う。食べているチョコチップメロンパンのチョコチップが落ちたとしたら、うーん、砂まみれなら拾わずにそのままに立ち去る、家の床だとしたら、拾って「あとで捨てる」として皿の上に置いておく、座っている自分の脚の上だとしたら拾ってフーフーして食べる。チョコチップを捨てる私あれば拾う私ありだ。
拾うの対義語が捨てるであることは、なんとなく納得しているけど、拾うことの反対は置くことであるとも言えるし、逆の捨てることの反対は買うことであるとも言えそうだしで、言葉の「対義語」「反対」ってなかなか難しい。数学的ではない、とか言いたくなる。それでも、拾うことと捨てることとが対置されるのにはいくつか理由があるんだろうな、って思うところを書いてみる。
まずは、漢字が似ている。拾う、捨てる。へんが“てへん”で共通しているし、つくりは部首ではないにしろ“ひとやね”が共通していて「口」も付いている。違いは「一」か「土」か、それと読みと送り仮名くらいだ。それだけで、対義語として並べても似合って見える。
あとは、動作のベクトルが正反対であることが挙げられるだろう。拾うことと捨てることの動作は、ある物体・対象を自分と外部環境とのあいだで「近づける」か「遠ざける」か、そうした反対方向の動きを持っている。自分の手元に寄せるか、手放すか。所有が自分に有るか無いかという点でも反対の意味を持っている。
大まかにはこの「漢字の類似」と「動作ベクトルの向き」が対義語としての強固な関係を作っているんだろうと思いました。
一方で類似しないな、と思うのが動作の簡便さで、拾うには基本的に手を地面方向へ近づけるためにかがんだりしゃがんだりしなくてはいけない(マジックハンドがあれば別だ)が、捨てるには立ったまま簡単にポイと手放すことができる。いや。これは、ケースバイケースか、状況によりけりだ。冷蔵庫を拾うことと捨てることの簡便さは逆だ。
こうして、意味とかイメージとか、どうにかして納得可能そうな情報を拾って文章にするというのは、捨てるよりまことに大変なものだ。そういえば、プライドは捨てられるけれど拾うことはできなくて、どう入手されるのだろうな、築きたい、でいいのかな。

#拾う #181201

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