『ハーフタイム』#198

サッカーから頭が離れない。いや、頭からサッカーが離れない、だな。一心同体のような心地だ。サッカー脳で頭が休まらない。
そんな時こそハーフタイムを挟むべきだ。
なんて、一時的な休息を表すことばとして使ってみることしばしば。仕事中の、お昼の休みとは別の、一連の時間の中間くらいに挟むつもりの休息。頭を休め、身体を休め、パソコンや身の回りの道具をも休め、オーバーヒートを防ぐ。神経はすり減らし続ければ切れてしまうし。体力は使い続ければ果ててしまうし。そして、ハーフタイムの醍醐味は休息だけに非ず。戦略、作戦の調整時間でもある。
その試合の開始時に組んでいた戦略でまず戦ってみる、時間が経過するうちに戦力と戦況が変化してくる、うまくいっていれば今後相手に押し切られないように引き締めるべきだし、うまくいっていなければ作戦を新たに講じたり戦略変更を試みてみたりと切り替える、あるいは、端的に戦況が芳しくないにしても戦略は間違っておらず遅効性な狙いが身を結ぶのを待つのであれば忍耐力の底上げを図れれば良く。始まってからある程度の時間が経ってから、戦況を見極めてそれ以降の戦略を見直す時間としてハーフタイムをとる。これはゲーム的なものや、何か進展を目指すものならば共通の“戦略”だろう。
サッカーではW杯では、前後半で戦略をコロっと切り替えるのはあまり見かけなかった。それぞれのナショナルチームで戦い方は定まっている。作戦や戦略、というよりも、スタイル。メンバーの個性やお国柄からくる、無限にあり得る型のなかで収斂していく“自然な”型。適性、かな。だから、敵チームが体格良くディフェンシブながらオフェンス陣はロングボール一発でゴールを決めるスタイルだからといって、自チームが体格的不利にある以上、同じ土俵のパワーで競おうとしても足りない部分がある。パスワークで突破を図ったり、あえて攻め込ませて相手のディフェンスラインを上げさせてカウンターで裏へ突破しやすくしてみたりと攻撃の方法はあるし、守るにしたら最終的なラストパスを見極めて複数人でプレスをかけて自由な形でシュートを打たせないようにするとか、やりようはある。そのやりように対して相手が型を変化させてきたときに、即時対応できるよう、試合前から対応策は練ってあるはずなのだ。だから、ハーフタイムでコロッと変えるでもなくプレイ中に変化を察して現況の型の中で対応する。
仕事にしてもそうだろう。プレイ中にトラブルが発生したとしても極端に不測の事態でない限りは、過去の経験から対応策をとることができる。じゃあハーフタイムをはさむのはなぜかって、自分の身体が停止した状態で、動的な慣性が働いていない状態で戦況を見極める時間をとるためなのだ。
いくら冷静で計算高く観察力が優れていたとしても、例えば、例として適切かはあやしいが、車を運転しながら一瞬で視界を過ぎ去る歩行者が、自分がふだん歩く場合の速さより速いかどうかを判断することは大変に難しいもので、適切に判断するためにはその歩行者のそばを歩いてみるとか止まって眺めるとか、見方を変えなければ正確にはかりとることができない。
ときどきは、動きながらだと相手の動きが鈍く見えて自分の動きが上回ったり思考が加速して“頭がキレる”状態、ゾーンに入ることもあるけれど、止まって全体を眺めないと掴まえられない正確性がある。
だから。身体時間と別の“時刻”でハーフタイムを差し挟むってのは生存戦略とさえ言い切れそうだなとコーヒー飲みながらいま思う。

#ハーフタイム #180704

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