『飾る』#91

苦手だなぁと感じることが多い。シンプル、とか、素朴、とか、ありのまま、とか、ミニマル、とかとか、そういうのが好みで、煌びやかな装飾は自分の手周り身の回りでは近くにあり難いものに当たる。先日なにかのnoteで(白い、みたいなことを題材にしたやつで)書いたように、持ち物は色があっても基本的には単色だし、フリルや柄物はない。そういう動作を含めて。飾る、ということ。
そう思っていたって感じていたって何かしらの華やかな出来事、記念的な行事には日常との差異が求められる。求められていると感じるし、そのうえで最善の非日常的なものを提供したいと思う。その気持ちには偽りは無い。ただ、その非日常感の演出に、飾る、その意識・動きが発生するときに私はまごつく。苦手なのだ。目立つということと目立たせるということが。綺麗、とか、インパクトがある、とか、例えばポスターやプレゼンボードのレイアウトにおいては、写真を大きく使ってみたりコントラストを上げるとか逆にモノクロにしてみるとかやりようはあるし、文字なら大きくするとかフォントや色を変えてみるとか、考えてみれば、綺麗な組み方にインパクトを持たせたレイアウトを用意することができる。でも、飾る、という言葉を使われると難しい。もっと装飾的にしてくれ、とか注文されたら私は考え込みすぎて鼻血を出すだろう。たぶん私は、飾るということに短絡的に華美なイメージを持っているのだろう、あるいはポップな。古い日本家屋や寝殿造の建築で、欄間におさまる滑らかで厳しい龍や虎、または植物を模して作られた彫刻にしてもそうだし、フランスの王侯貴族の宮殿に見られるような大理石の彫刻や天井のフレスコ画や肖像画とそれを縁取る額にしても大変華美な装飾がなされている。
端的に言えば、貧乏性なのかと思う。いや、日用品の使い勝手や素材の良さに関しては「百均の簡素なものでいい」とはいかずそれなりにこだわりがあるし、衣服も全部ジーユーでいい、ともならないし(ジーユーの服はそういえば持っていないな、書いたくせに)、幾らかの、それはプライドなのか高級志向なのか負けず嫌いなのか、気持ちが作用している。
どうにも、目立つことが苦手なのか。でも、こうして暇つぶしに書いているものでだってちゃっかり公開して時々「書きました」とか言ったりしてるくせして何をと思うだろうが、わたしもそう思う。
この文章は、オチがない。
何がそうさせたのかわからないけれど私には「飾る」という言葉、「私が〜飾る」という主体になることがたまらなく恥ずかしいと感じてしまうことだけ表明してnoteを締めたいと思う。この気持ちはなんだろう。男子として先端の尖った革靴は履けないし、アルマーニのスーツを着ることもままならず、ロレックスには視線を送ることさえできない。飾ることへの恥意識はなんだ。

#飾る #180319

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